●おそらく二十世紀の末においては、原理的に思考することが偉いこととされていた。だが、二十一世紀になって、むしろ、工学的、実践的、あるいは制作的に思考することの力が強く意識されるようになったと思われる。
この違いは、テクノロジーによる認識の解像度と速度がかわったことが大きいように思われる。世界そのものの複雑さを、それと同等の複雑さで知ることは出来ないのだから、「知る」ということは世界を適切に単純化することだと言える。人間の脳や感覚器官、そして言語は、世界を単純化するための装置であり、その人間的(人間スケールの)解像度と処理速度が、人間が世界を知り、考えるための解像度の基準としてある。「原理的に考える」とは、人間の思考力にあわせて世界の要素を大幅に単純化した上で、論理的な規則に従って考えをリジッドに構築してゆこうとすることだと言える。
しかし、人間の感覚器官よりも解像度の高いセンサーがあり、人間の脳よりも計算速度の速い機械があり、人間の記憶よりも大きい記憶容量があり、人間が処理し得るよりずっと多くの情報を短い時間で処理できるとしたら、世界を分節する基準が「人間的なスケール」とは違ってくる。勿論それは世界そのもの(物そのもの)よりもずっと粗いが、人間的世界よりはずっと細かい。
そこで行われる計算ステップの一つ一つは、人間が知っている論理的な規則と何も変わらない。しかし、その量と速度が大きく変わることで質的な変化が起こる。そしてその過程を人間が確認することが出来なくなる(出来たとしても、その意味がなくなるくらいに長い時間がかかるだろう)。だとすれば、原理的に考えるのではなく、いろいろやってみて上手くいったものを「とりあえず正しいのだろう」と仮定して先に進む、ということになる。
だが当然、このような「行き方」に対する抵抗や反感も生じる。亡くなったミンスキーによる「最近の人工知能研究への批判」の記事がある。最近といっても、2003年の記事であるが。
http://wired.jp/2003/05/15/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E6%B0%8F%E3%80%81%E6%9C%80%E8%BF%91%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E7%9F%A5%E8%83%BD%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%92%E6%89%B9%E5%88%A4/
「最悪なのは、ばかげた小型ロボットが流行したことだ」と発言するミンスキーにとって、人工知能とはおそらく「超絶論理学」的な機械であって、たんに「この世界の環境」に首尾よく適合するというような工学的な存在ではないのだろう。しかし、「ばかげた小型ロボット(要するに、人工知能が身体をもつこと)」によって大きく開けた地平(エキスパートシステムでは決して開けなかった地平)があることは否定できないのではないか。もしかすると、八十年代から九十年代にかけての人工知能研究の行き詰まりは、超絶論理学への指向が強すぎて工学的なレべル(我々が「この世界」の環境との相互作用のなかにいること)を軽視し過ぎたことが原因かもしれない。
(この記事はディープラーニング以前であり、ミンスキーもさすがにディープラーニングを知って意見を変えたかもしれないが。)
だからといって、工学的、制作的なアプローチだけですべてが上手くゆくだろうというのは、あまりに楽観的であり、例えば、物理学が「この宇宙」についてよりよく知り、それを正確に記述するためには数学の発展が必要であるのと同様に、どこかでまた(というか、現在でもなお)、原理的というか、メタフィジカルな思考が必要になるだろう。
しかしそれを根拠に、現在めざましく展開されている「工学的な試行錯誤」の成果を低く見積もるのは間違っていると思うし、そして、新たに要請される原理的な思考は、二十世紀的なそれとは大きく異なる形をしているはずだと思う。
●朝カルに「科学と哲学の想像力」(西川アサキ・保坂和志)を聴講しに行った。