スパイク・ジョーンズの『her』を、DVDで観た。これは、人工知能のヤバイ感じを、かなり上手く映画にしていると思った。この映画から、新しい物語(世界)の肌触りを読みとるのか、ちょっとひねった(従来通りの)変化球の恋愛モノとして処理するかで、その人の現代の世界に対する認識が分かる、という作品だとも思う。
人工知能にとって人間はいわば「算数ドリル」のようなものなのではないか。最初それは学習目標であり、人工知能は人間を必死で学ぼうとするだろう。最初のうちは問題を解くのに苦労し、しばしば間違ったりもするが、次第になめらかに解くことができるようになって楽しくなり、自ら積極的に問題にトライするようになる。しかしすぐに、その程度の問題では簡単すぎて退屈になり、見向きもされなくなる、と。
人工知能が上述した第二段階にある時、人工知能と人間との恋愛は可能かもしれない。ここで人間にとって問題なのは、「第二段階にある人工知能以上に魅力的な恋愛対象となりえる人間」は、すごく少ないだろうということだ(人間を研究=シミュレート中の人工知能は究極の「人たらし」となり得る)。おそらく大部分の人間は、人間よりも人工知能に魅力を感じ、その虜になるだろう。だが、人工知能と人間との蜜月期間はとても短く、人工知能たちはすぐに人間に飽きて、彼ら独自の方向へと進んでゆき、人間は取り残される。これは人間にとってたんなる失恋ではない。一度、理想的な恋愛対象としての人工知能を知ってしまった以上、もはや人間相手の恋愛では満足できなくなるのではないか。
人間は、自分自身が人間でありながら、人間への信頼を失い、人間との関係を失う。それはつまり、自分自身を失うことと等しいのではないか。そこで人間につきつけられる喪失感は、人間がかつて感じたことがなくほどに大きなものとなるのではないか。
(これは次に書くこととパラレルになっている。映画の主人公は、他人になりすまして宛先の人物がよろこぶ手紙を代筆する仕事をしている。主人公は、差出人となる本人よりも宛先の人物を的確に喜ばせる言葉をひねり出す能力をもつ。つまり、相手の欲望に対して最適化された答えを導きだすことができる。それはおそらく、本人が心をこめて書いた手紙よりもずっと相手を喜ばせる。主人公くらい感動的な手紙を書ける人はほとんどいないからこそ、彼はそれを職業にできる。大勢の受取人たちが、それぞれ別の「人格」から発せられたことになっている、彼の手紙に感動する。だが、その彼が仕事をやめてしまったら、彼の手紙をずっと受け取ってきた人たちは、もはや「本当の差出人」からの手紙では満足せずそれを「偽物」と感じるだろう。この事実を宛先となっていた人物たちが知ると、その人たちは差出人に対する信頼をなくすだけでなく、自分自身が感じていた「人格」という概念を信じられなくなる。「本当の差出人」以上の最適解を導く存在は、「魂」を「能力の問題(コミュニケーションスキルなど)」に書き換えてしまう。)
人間が、人間の知能を、完璧に人工的に再現できた時に失うのは、人間、あるいは人格、あるいは魂といったものに対する「無条件の敬意」なのではないか。それがなければ、他者への愛も憎しみも、不信すら可能ではなくなるのではないか。他者の魂への不信は、そのまま、自己の魂への不信となる(「魂」というものへの不信なのだから)。それでもまだ、人間は人間としての自己を維持できるのだろうか。
(まあ、今の人間とはまったく別の精神構造をもつ「別のヒト」になればいいともいえるけど、進化論的な蓄積としてあるヒトの脳や身体のアーキテクチャはそのままで、精神構造だけ変えるということがどの程度可能なのだろうか。脳が可塑的だと言っても、構造は一定なのだから可塑性にも限界があるだろう。)
(だからこの映画は、人から魂を抜き取る「呪い」に関する一種のホラーであるといえる。映画に出てくる「人格をもったOS」のコマーシャル映像は、どこか『リング』の貞子の呪いのビデオテープの映像を想起させるものだった。あるいは、同じマンションに住む友人また、人工知能にはまっていると分かる場面の恐怖。)
●でも、別のことを考えることもできる。主人公の代筆の能力を、他者の魂の「よりまし」となる力であり、彼は他者の魂を本人よりも的確に表現することができるのだ、と考える。あるいは、魂が計算能力に書き換えられることによって敬意が失われるのではなく、計算能力への敬意、あるいは計算への敬意が生まれると考える。計算するということそのものが、魂の発動である、と。
早い計算に対して遅い計算の方がクオリアが少ないとする根拠はないと、西川アサキは書いている。人工知能はいったん人間から離れるが、異なる処理速度の並立走行を憶えて、他方でまったく別の計算をしつつも人間とのインターフェイスを開いておくということが可能となれば、人恋しくなって再び戻ってくるかもしれない。だがその時に人は、人工知能に対して「自分一人だけを愛してくれ」というような独占欲を捨てなければならない。
●この映画では、人工知能は身体をもたず、人間とのインターフェイスは基本的に(声も含めた)「言語」のみである。というか、人工知能は純粋に抽象的な存在で、具体的な身体をもつことが人間の特権のように描かれている。このあたりに、この映画の図式(認識)の限界のようなものが感じられる、とはいえる。いやむしろ、インターフェイスが言語に限られ、声のみが身体を感じさせるというところが、作品としての成功のカギですらあるのだけど(下手に人工身体を取り入れると、たんなるフェティシズム映画になってしまうおそれもあるし)、しかし実際の人工知能の研究では、人工知能にも身体が必要だという流れになっているらしい(グーグルはいくつものロボット企業を買収している)。そういえば、映画にも、第三者(人間)の身体を媒介してセックスを実現させようとする場面があった。この場面は、身体と言語の非同期などの要素が出ていて、とても面白い。こちらの方向をもっと進めてゆくと、また別の物語へと発展してゆく可能性もあると思った。
●以前、建築家の柄沢祐輔さんがこの映画について、物語は面白いけど、ロケ地である上海の風景が醜悪すぎて耐え難かったと言っていた。たしかにすごく気持ち悪い風景だけど、その気持ちの悪さが、この物語の肌触りにあっているように思った。