●今更だけどサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。まず、サンデルの意見がどうこういう前に、現時点の様々な政治哲学の潮流のざっくりとした見取り図として面白かったし、勉強になった。
だけど、理論的な点から言えば、サンデルなどのコミュニタリアンによる「自由」の批判(「幸福=功利主義」や「自由=リバタリアン・リベラル派」に対する「善」の優位)は、リバタリアン的な「自由」の批判ではありえても、リベラル派的な「自由」の批判にはなっていないのではないかとも思った。カントの「定言命法」もロールズの「無知のヴェール」も、「自由」を私的な領域のみにとどめず、公的なものとして取り扱うための理論的装置なのではないか、と。
とはいえ、実践的なレベルで考えれば、リベラル派的なものであっても「自由」という概念によって、人を、公的な問題や道徳的問題と結びつけるのが困難であるという指摘は説得力がある。おそらく、カント的な自由は、(将来、発見され得る普遍的法則へ向けた行動という意味で)「未来から投射された現在」としてあり、一方、コミュニタリアン的な「目的論的善」(最も良い笛は、最も笛の巧い者に与えられるべき)は、「過去から投射された未来との関係における現在」としてあるのだと思った。つまり、根拠(価値)を未来(未知)に置くのか過去(既知)に置くかの違いで、その違いがそのまま、自由=選択に重きをおくのか、あらかじめ背負わされたもの=伝統に重きを置くのかの違いとしてあらわれているように思った。
サンデルは、自由=選択といっても、その根拠が個人の利益や独善的・個別的嗜好性というのでは薄弱すぎて、そんなことでは人々が「善い生」を得るための指針とはならないと言う(自分の行為が普遍的な規則であり得るように行動せよとカントは言うが、具体的にどうすればそんなことが可能なのかは言っていない)。過去から受け継いだ(背負わされた)共同体の伝統や宗教的価値観という「物語(共通善)」の内部に自分の生が「組み込まれている」と考えることによってはじめて、生を意味づけ、行動の指針を得ることができる、と。
たとえば、功利主義者による「幸福の定量化」を批判し、そもそも「目的(善)」が定められなければ「何が幸福なのか」が分からない、とサンデルは書く。
あるいは、たとえば同性婚の是非について、それを否定する人は明確な道徳的主張によって否定するが、肯定する人は個人の自由を持ち出し、公的な制度の中立性によってそれを肯定する。だがそれでは公的な共通善に関する議論ができない、とサンデルは書く。
そもそも、価値に対して中立であろうとするのなら、なぜ、三人や五人による「結婚」も認めろと主張しないのか。というかそもそも、個人的な人生のパートナーの選択についての公的機関の関与そのものをなぜ否定しないのか、とする(だが、そのようなリバタリアン的な主張は、個とコミュニティの繋がりを断ち切ってしまうのだ、と)。もし同性婚を積極的に肯定しようとするならば、「結婚の目的」が、「パートナー同士の独占的で永続的なかかわりあい」にあり、そしてそれを「共同体が賛同すること」にあるのだと主張し、その主張(目的)が、たとえば結婚を「生殖を目的としたもの」だとする主張よりも優位にあることを示さなければならない、とする。つまり、中立=自由ではダメで、「目的」をたてることではじめて公的な善に関する「議論」が可能になるのだ、とする。
(このような主張は確かに一定の説得力があるが、その一方で、目的とは過去から投射された未来に過ぎず、どうしても、未来――という余白――を過去によって塗り潰してしまっているような閉塞を感じてしまう。さらに、個と共同体――種?――の間に必然的に生じるであろう「ねじれ」を、コミュニタリアンはどう処理するのだろうかという点については、この本は何もいっていない。)
(あるいは、過去から投射された未来としての「目的」は、複数の「目的」間の抗争=議論という「現在」を媒介とすることで、余白としての未来への道となり得る、ということもあるのか。要するに、伝統がどうとかいうより、どのような物語-目的が「共有されるに足るものなのか」ということに関する「議論」が可能になることが重要だ――自由=公的機関の中立性、となると、それが出来なくなる――ということなのだろうか。)
●科学や技術とはある意味、カント的な定言命法のうちの一つ(汝の意志の格律がつねに同時に普遍的法則となるよう行為せよ)の実践であるようなものだとも言えるのだが、しかし定言命法のもう一方(他者を手段ではなく目的として扱え)には反しているようにも思われる(コミュニタリアンの場合、「目的」は他者-人格ではなく――議論を通じて得られる――共通善になるのだろう)。だから科学・技術が体現する「自由」は、伝統や宗教を通じて過去からやってくる「目的(善)」にとって常に大きな脅威となるはずだ。その時コミュニタリアンは、たんに反資本主義というだけでなく、反科学主義として振る舞わざるを得なくなるのではないか。
人間が「人間の頭」で考え、世界を「人間の世界」として捉えている限り、サンデルには一定の説得力があるように思える。しかし、資本と科学技術の自由な結びつきが許されてしまっている資本主義的な世界において、すでに「人間の頭による計算能力を超えた計算」によって社会や経済が動いてしまっている(そして、その事実が可視化されてしまっている)としたらどうなるだろうか。人間の知性を完璧に(分析的に)模倣できる人工知能ができたとしたら、そのような時代でも共同体主義的な「目的」や「善」は可能なのだろうか(いや、だからこそいっそう「人間的な生」のための「目的論的な善」が必要になる、ということなのだろうか)。