2023/02/16

●『モノたちの宇宙』(スティーヴン・シャヴィロ)の第三章「モノたちの宇宙」にかんして、昨日の日記を書いていた時点では、次のような記述にひっかかっていた。

《(…)もしぼくが人間の主体について理解するのと同じ仕方で他の存在者について考えなければならないとしたら、ぼくにとっての唯一の選択肢は消去主義と擬人論になる。》

「人間の主体について理解するのと同じ仕方で他の存在者について考え」るとは、非人間中心主義的、非相関主義的に考えるということだが、その時、(機械論的・物理、科学主義的な)「消去主義」と、(非有機的なものも含めたすべての存在者がなにかしらの意識をもつと考える)「擬人論(=汎心論)」の組み合わせしかないというのは、あまりに心身二元論そのままではいないかという危惧を抱いた。

(とはいえ、三章のこの後の展開は、消去主義と擬人論の組み合わせから、徐々に汎心論の方に傾いていくという流れなのだが。)

序章に書かれた、あらゆることがらは「経済学」と「美学」に収斂されるという言い方や、次の章のタイトルが「汎心論と消去主義」であることも思い出され、少し警戒したのだが、まさにその次の章を読んで、それが杞憂だったと分かった。ぼくは短絡的に、消去主義=身体(物理)優位、汎心主義=心(意識)優位だと思い込んでしまったのだが、そうではなく、消去主義を、まさに心身二元論に捉われているものと批判し、それとは異なる、一元論かつ多元論的なものとして「汎心論」を描いているのだった。

以下、第四章「汎心論と消去主義」より、引用、メモ。

●消去主義(メイヤス―・ブラシエ)

《メイヤス―は思考(または言語)をすっかり除外しなければならないと主張する。(…)メイヤス―にとって現実=実在は「全く無=主観的なもの」(…)である。ぼくらは「思考なしですませる世界、すなわち誰かがそれを思考しているか、いないかという点に本質的に影響されない世界」(…)を考えなければならない。》

《少なくともメイヤス―による定式化が示唆し、ブラシエがさらに真っ向から力説しているように、どうやら反相関主義は根本的な消去主義に行き着くことになるらしい。》

《知覚と感覚という代償を払って、メイヤス―は数学的な形式化を特権視する。彼によれば、これこそある対象がそのうちに、またそれについてもつ当の属性の背後にいる「観察者を除外する唯一の方法であるからである(…)。「数学的用語で定式化しうる対象のこれら全ての側面」---ただこれらの側面だけが、と付け加えることができるかもしれない---「対象それじたい(即自的対象)の諸属性として有意なものと考えることができる」(…)。(…)まさに「数学の自然化」を通してのみ、自然科学によって「われわれが存在しないときに存在しうるものを知る」ことが疑いなくできるようになる(…)。》

《ブラシエの議論はメイヤス―のそれに似ているが、その射程はさらに広い。(…)どのような仕方によっても「可知的に作られておらず、そもそもどのようなかたちであれ意味を吹き込まれていない世界」(…)を甘んじて受け入れざるをえなくなる。こうしてぼくらは「絶滅の真理」に、つまり、「この宇宙の先行きにおける、あらゆる思考の避けられない根絶」(…)に容赦なく導かれることになる。》

《(…)思考は生理現象の随伴現象にすぎず、錯覚に満ち、何の効能もないものだという結論に導かれる。》

《ブラシエはこの冷徹な論理をとことん行き着くところまで押し進めて、「絶滅の知性の露払いをする意味の絶滅」を宣言する。無感覚性と無目的性は単に何かを奪われている状態ではなく、知性の増大を表している(…)。(…)意味と目的の根源的な消滅は、ぼくら人間とは別の、その相関関係や投企とは離れて、現実=実在(的なもの)をあるがままに理解するために払う代価でなければならないというのか?》

《ブラシエとは対照的に、メイヤス―は消去主義による過激な帰結には逃げを打っていて、宇宙の歴史のある時点において、まずは生命、続いて思考が不条理かつ根源的な無から出現するという議論でかわしている。(…)そうしてメイヤス―は、デカルト主義による受動的で不活性なものという物質や延長の描き方を温存しつつ、まずは生命、続いて思考が、絶対的に偶発的で予見しえないかたちで存在化するという逃げの文句を用意している。》

●消去主義には人間中心主義が隠されている

《ぼく自身としては、メイヤス―と一緒にこの道を進む気はない。》

《何よりもメイヤス―とブラシエによる説明における本当の問題は、両者ともに物質そのもの---それが相関関係の外に存在する限り---は単に受動的で不活性的で、意味や価値などを全く欠いているのでなくてはならないと想定している点である。しかし、この想定そのものが自然の分岐の帰結ではないのか? モノたちは、ぼくらがいなければ、それじたいでいきいきと活動的で、意識をもったものではありえないと決めてかかるのは人間中心主義的な偏見にすぎない。それはぼくらだけがとらえる諸性質、ぼくらの外部にある「モノたちの宇宙」に単に投影する諸性質であるというふうに、なぜ考えなければならないのか? このようにして消去主義の議論は、たとえそのあからさまな目的が人間例外主義をおとしめ、やりこめる場合であっても、人間例外主義を想定することによってはじめられる。》

●メイヤス―による「充足理由律の否定(「原因の無限後退」と「新しさの不可能性」)」に関する、ハーマンとホワイトベッドの批判

《相関主義の偶然性と超限数(無限)の全体化の不可能性を彼(メイヤス―)は例証しているけれど、充足理由(根拠)律を打ち捨てるいかなる理由も見当たらない。ハーマンの見るところ、メイヤス―はこの原理に対しては二つの異議がある。第一の異論によると、「第一原因」や「不動の動者」を恣意的に措定することによって最後まで対抗するのでないとしたら、原因の無限後退が必ず生じることになる。第二の異論はこうだ。この原理は様々な結果は様々な原因に還元できるということを意味するし、もしそうであるなら新しさなど不可能であるということを意味する。しかし、ハーマンは、無限後退を想定して何も悪いことなどないし、ある結果は、その様々な原因とすっかり独立することなく、みずからの原因をうまく乗り越えられる。》

《(…)ホワイトヘッドは充足理由(根拠)律のかたちを保ち、同時に何ものもその原因に完全に規定されることはないと強調している。ある活動的存在は自らに影響を与える原因を免れることはできないが、いかにこの存在が様々な原因を受け入れ、対応しているかを決定しなければならない。より精確には、所与のデータを包握する所与の主体には、「いかにして主体はデータを包握するのか」(…)という点で一定の余地がある。さらにそのようなあらゆる決定は少なくとも、宇宙に僅かばかりの新しさを導入する。しかし存在論的原理はまた、いかなる存在者もそれに先立つ根拠から全く自由になることは決してありえないと主張する。つまり、「どこからともなく世界に流入するようなものは何一つない」(…)のである。》

●汎心論(ホワイトベッド・ジェイムズ・モートン・ハーマン)

《無価値性についてのこうした主張に対する根源的な代替案は、ホワイトヘッドによる「活動性の各々の脈動の不可欠の性質を構成するものとしての、価値経験という共通の事実であり……存在は、それじたいの性質において、価値の強度を支えている」(…)という洞察である。これはつまり、価値と感覚はあらゆる存在者にそなわっており、したがって現に存在するとおりの世界に内在しているという意味である。この世界そのものはいかなる超越的な究極目的も価値も有さない。なぜなら「世界」とは唯一特異的な存在者ではないからだ。つまり「世界は有限なものの多数性であり、完成された統一性を求めている活動性の多数性である」(…)。しかしながら、そのような「完成された統一性」は決して成就することがない。「世界」は決して「静的な完成態にいたることはない」(…)からである。》

《(…)美とは、ホワイトベッドが定義するように、まさに「経験の多様な項が互いに内的に適合すること」(…)以上のものでもなければ、これを越えたものでもない。つまりホワイトヘッドにとって「美」とは全てを包みこむ価値ではなく、多様な存在者の多様な価値がそれじたいを最大化し、かつ強化しようとし、またお互いに適合しようとする様々な方法の総和にほかならない。肝心な点は、そのいくつかの審級において「存在」が「価値の強度を支えること」を意味するようになって以来、価値と事実をヒュームのように分離することはできない。そして事実と価値の二分法がなければ、世界の外部に価値をおくことによって、また実践理性の叡智的主体に価値を委ねることによって、この二分法のカント的またヴィトゲンシュタイン的な解決など必要ない。》

《彼ら(ジェイムズ・ホワイトベッド)は消去主義者がそうするように思考そのものには異議を唱えておらず、ただ思考の自己反省による自己特権化に、また思考が特別で卓越したものであるという主張に異議をつきつけるにすぎない。》

《思考はモノと同じ素材でできている。》

《(…)思考は存在そのもの、また存在する個別の存在者の各々に内在する属性---あるいは力---であるということになる。》

《ティモシー・モートンはさらに具体的で、どこか似ている点を主張しており、そのさい彼は「鉛筆が卓上にあるのと違わないかたちで、わたしの心も存在している。……鉛筆が心をもつのではなく、心が鉛筆のようなものなのだ。」(…)と主張している。(…)要するに思考とは---人間的な意味で「意識的」であろうとなかろうと---希少で素晴らしいものではなく、ありふれた普通のものなのである。》

《(何の認識論的な確証もなく)思考は起こり、生じる。》

《(…)ハーマンが言うには「(…)志向性は特別に人間的な属性では全くなく、むしろ対象一般における存在論的特徴である」》。

《もちろん、モルナーが描写するように、物理的な志向性は意識的なものではありそうもない。そこにはいかなる意味論的ないし表象論的な内容も含まれていない。しかし、心的で志向的な状態は必ずしも意味論的でも表象論的でもないとモルナーは指摘する。たとえば、痛みは「その志向対象---それが感じられる場所---に、その対象を表象(象徴化)することなしに向けられている」(…)。》

《ここでメイヤス―から逆さまの手がかりを得ることができる。思考の無からの根源的な創発=発明というメイヤス―の論点を受け入れないとすれば、思考はつねにすでにそこにある、つまり「生きているものも意志するものもない」と彼が主張するまさにその場にあると、逆に結論づけなければならない。》