●今、がっつり読んでいる余裕がないので、手っ取り早くズルをして(様子見として)『有限性の後で』の「訳者解説」だけを読んでみた。なるほどと思うところも(「事実の絶対化」から「矛盾律の肯定」が導かれるところとか、すげえな、と)、えーっ、それ成り立つの? と思うところもあるけど(「可能性の全体性」が成り立たないから「頻度の帰結」が失効する、という理屈をどう捉えたらよいのか)、一つ思ったのは、エリー・デューリングの「ロマン主義への批判」は、メイヤスーの「強い相関主義への批判」と、形としてかなり重なるところがあると理解していいのかなあ、ということだった。
弱い相関主義は、「物自体」を認識不可能だが思考可能だとするが、強い相関主義において物自体は、認識も思考も不可能であることになる。たとえば弱い相関主義において無矛盾律は「物自体」の側の原理とされるが、強い相関主義においては「私たちの側の事情(有限性の問題)」となる。
《(強い相関主義によって)私たちの有限性の外部で、物自体がいわば〈宙に浮く〉のに伴い、必然性概念も〈宙に浮く〉のである。重要なのは、この段階では、物自体も必然性も、有限性-相関性の外部に追いやられてはいるが、完全に抹消されておらず、亡霊のように残存しているという点である。》
《メイヤスーが相手取るのは、絶対的なものではなく、有限性であるところの相関性の外部に「思考不可能なもの」を保持するタイプの強い相関主義である。》
《こうして、(物自体について)〈根本的にわからないがゆえにあれこれ言いうる〉という余地が---有限性の彼岸に---生じる。メイヤスーによれば、この余地において、非合理的・神秘的な言明をそれこそ真理であるかのように言う「信仰主義」のあれこれが、すべて「リベラル」に、対等な権利を認められることになるのだ。(…)その余地において言われる非合理なあれこれを、どれひとつとして優越的ではないというリベラルな態度によって放置することこそが合理的である、ということになる。本章の最後においてメイヤスーは、このように、強い相関主義と信仰主義との共犯関係に対して批判を向ける。》
(以上、『有限性の後で』の「訳者解説」、以下は、エリー・デューリング「プロトタイプ」)
《わたしがざっと簡単に描くところの思想的布置において、ロマン主義は結局のところ、有限の作品と〈理念〉という無限との関係にかかわるある決定としてあらわれる。》
《一方に、メジャーなロマン主義、こう言ってよければ「公式のロマン主義」がある。それは、このロマン主義受肉の図式に従うという事実に認められる。つまり、作品という有限の形態への〈無限〉の降下---ただしその際、形態は、最大の緊張、葛藤、破裂、潜在的な無限化といったものを被る---である。(…)〈無限〉の受肉は同時に、形態の無限化となる。というのも、厳密には、有限と無限との間に可能的な関係というものは存在しないからである。あるいは、この関係は離接的なものであり、感覚的な要素の中で、非=関係として与えられるものである、と言わねばならない。実際には、〈理念〉の無限性は、その痕跡、断片、反映といったものの散在を通じて現れ続けるだろう。今後はそれらのものが、額縁に入れられたり台座に載せられた、アトリエや美術館の陳列室に置かれた有限な作品に取って代わるのだ。このロマン主義は、プロセスの、流れの、普遍的な生成変化のロマン主義である。》
《(他方で、パフォーマティブな、ロマン主義のマイナーなバージョンがあり、そこで)重要なのは、物質的な形態を切り取ることでも、それがさまざまな断片や残存物---〈理念〉の移行を証言するもの---へと破裂することでもない。そうではなく、重要なのは、切り取りの、あるいは設置の行為そのものであり、形態を創設するところの創造的身振りであるのだ。そのとき作品は、それ自身の生成プロセスの背後で次第に姿を消すことになる。(…)結局のところ重要なのは、何かを作り出すよりも、ある活動---それが知覚不可能なものであれ---のしるしを組織することであるからだ。「作品なき芸術家」、しかしそれでも芸術家である。(…)そこでは、芸術家という主体の能動的な、あるいは苦悩する身体が作品という有限な形態を凌駕することになる。》
●一方では、プロセスが産出し続ける産出物(痕跡、断片、反映、資料、活動報告…)が、他方では、行為する芸術家の能動性(身振り)が、有限な形態としての作品にとって代わり、理念の無限性と結びつく。現代のアートにおける、プロセス的体制とパフォーマンス的体制の間の「ゆらぎ」は、「効果的な矛盾」となり、有限の形態としての作品を打ち砕いて断片化することで(プロセスや身振りにおいては「作品の全体」が決して現れないが故に)、容易に「先取りされた無限」として理念と結びつく。故にロマン主義から抜けられない。決して全体として現れることのない断片や身振りを前に、それとは非=関係である理念について、いくらでも恣意的に語ることができる。これは、「物自体」については〈根本的にわからないがゆえにあれこれ言いうる〉ということと似ている。
●ところで、あくまで「訳者解説」によると、なのだが、メイヤスーの相関主義批判は、相関主義を徹底化させることを通じて行われるという。世界が「必然的」にこのようなものであるのかどうかは思考不可能だし、世界の究極的な「理由」も思考不可能である(強い相関主義)。そこで突き当たるのが、世界は必然も理由もなく、ただたんに「このようなもの」であるという「事実性」であるという。世界が(必然的にではなく)「たんに」このようなものであるとするならば、世界が別様である可能性も考えられる。だが、「世界が別様でもあり得る」と考えられるのは、わたしたちにとっての世界がこのようにあるという「事実性」から言えることで、「世界それ自体(物自体)」の側のもつ可能性とは言えない(強い相関主義)、と。だがメイヤスーはここをひっくり返し、「世界が別様であり得る可能性」を、世界そのものの側に属する可能性であることを示そうとするのだ、と。この部分の論理がどのように展開されているのかは「訳者解説」にはないので、本文を読むしかない。
そしてそこで「絶対的な偶然性」という概念が出てくる、と。この世界は、何の理由もなく突然まったく別様に変化する可能性があり、その偶然性は「私たち」の側ではなく「世界それ自体」の側が有する可能性であるのだ、と。この帰結は「有名」だろう。《メイヤスーの「思弁的唯物論」では、事実性の絶対化が相関主義の徹底において不可避であると明らかにして、その結果、理由律をきっぱり放棄するに至るのである。》《存在論のもっとも根本的なレベルにおいて、偶然的にあらゆることを生じさせる「ハイパーカオス」を承認することになる。》
で、おもしろいのは、このような何でもありのめちゃくちゃな世界を承認した上で、「無矛盾律」を復活させる理屈だ。
《実は、ハイパーカオスはひとつの自己制限を有する。偶然性のみが必然的であるならば、必然的存在者が生じてはならない。ゆえにハイパーカオスは無矛盾律を満たさなければならない。まず、矛盾した存在者は「存在する/しない」を同時に含むために、存在しないと仮定しても存在するのだから、永遠なる必然的存在者である。そして、矛盾した存在者は、あらゆる他者性を同時に含むのだから、変化することがありえない、生成変化が完全にストップする。さらにいえば、どのように規定してもその否定を同時に含むのだから、規定可能性が無効化される。特定の何かから別の何かへと変化するということがありえなくなる。こうして、理由律を否定し、矛盾律を絶対的に肯定するという立場が得られる。》
なんでもありであるが故に、「矛盾すること」だけは禁じられている、とか、一体どういうことなのか、と。このような帰結を導く(メイヤスーに、というよりも)「論理」というものに驚かされる。「論理」ってなんなんだよ、と。