●アトリエから早めに帰ってきて、DOMMUNE(「畸形化するオブジェクト〜モノ、ネットワーク、交差交換!清水高志柄沢祐輔、上妻世海」)を観ていた。ここでの話を聞きながら、「現代思想」の人類学特集に掲載された論文(ぼくはまだ読んでいない)について清水さんがツイッタ―で書いていたこと思い出していた。以下、その引用。
《マリソール、全面的に共感するな。政治的闘争において他者と認められるものと違って、アースビーイングも先住民も不可視のもののうちにおいやられる。》
《昨日読んだ「現代思想」人類学特集のマリソールの論文思い出した。政治が健全な闘争の舞台に上げるのは、あらかじめかなり似たものなのであり、先住民や自然はそこでは不可視になっていると。しかし、それらのものもやはり存在している。。》
《係争が成立している時点でそれらは十分煮て(似て?)いるのであって、セール風にいえばゴヤの「棍棒で戦う二人の男」のように相似形である。そして大概、そういう関係は何かを「所有する」ための二者間闘争のモデルに複数のエージェントを還元している。》
《そこで争われているもの、椅子とりゲームの椅子は、それを賭けた相互の競合、主体性の奪い合いに比して重要でなく、「何でもいい」。相似したものどうしの闘争プロセスのほうが大事なのである。このプロセスにはまらないものは叙階され(?)、大方の人間も自然も見えなくなってしまうのだ。》
《こういうのは知のヘゲモニー争いでも同じだ。そこで、自然をもっと重視しようとか、この闘争は自然を生かすためのものだとか理屈をつけると、よくあるエコロジーになるし、弱者の権利主張の闘争になる。しかし問題は、このプロセス自体をゆるめて、エージェントを増やすことだ。》
《そのためには、媒体としてのモノ、自然を、ただ単純に奪われるものにしない「複数者の競合」ゲームにおいて捕らえ、闘争を収束させないで「遊戯する」ように見ていく必要がある。セールがボールゲームを比喩にだすのはそのためだ。彼の議論が新しかったのは、》
《複数性や譲与(剰余?)を見失わないために、「もっとモノへ」といくのではなく、モノにつながる人的エージェントのほうを増やしていったことだ。これによって、二者闘争のプロセスをまず崩し、モノが人的エージェントの作り出す複数性に先在している形を作った。「もっと人を」それが逆説的に》
《モノの剰余性も導くのである。》
●なぜ「制作」が重要なのか。上の引用で言われている「似た者同士による政治的係争」から、不可視の者までをプレーヤーとする「セールのボールゲーム」へと移行するためには、ボールになるモノが必要で、そのボール足り得るモノを生み出すためには制作が必要だからだ、と言えると思う。
闘争を収束させないで遊戯するようにそれを持続させ、モノの複数性や剰余を見失わないためには、「モノ」を増やすのではなく、そのモノに対してそれぞれ異なるアプローチをする人的エージェントを増やさなければならない。同じ一つのモノが、それぞれのエージェントによって異なる布置に置かれるという状態(モノが人的エージェントの作り出す複数性に先在している形)が生じるためには制作されたモノが必要。ここで「主体=一/モノ=多(主体が世界を構成する)」が、「モノ=一/主体=多(モノがネットワークを組み替える)」へとひっくり返る。そのために、多くのエージェントに(それぞれに異なる動機やアプローチからの)関心を抱かせるに足りるモノ、人を誘引する力をもつモノとしての作品が制作されなければならない(アプローチするということは、外側から評価付けすることではなく、その人もまた制作すること)。
(樹状的---マトリョーシカ的---な思考では、部分と部分とが直接的に繋がることができない。それを可能にするためには「モノ=一/主体=多」というマジカルな反転が必要。入れ子構造といっても、マトリョーシカモデルではなく、袋のなかに袋が入っている袋詰めモデルを考えれば、袋同士の---包むものと包まれているものとの---包摂関係はいくらでも組み替えることができる。フィードバックループ。)
セールのボールゲームと、デリダ的な誤配は異なる。誤配は、メイヤスーの批判する相関主義(信仰主義)そのもので、それでは制作が生まれない。それはモノを外側(超越的なものの側)に押し出すカントと同じ方向をもつ。それは、無限にプロセスがつづくリレーショナル・アートや、無限にアーカイブが蓄積されてゆくアーカイブ主義にいきつく。エリー・デューリングのロマン主義批判はこれに対する批判だ。
制作は、人がモノにアプローチし、それに対するモノのレスポンスを受けて、策を練り直して次のアプローチを行うことの繰り返しだから、モノの制作であると同時に、自分自身の自己制作でもある。
制作は、無限の可能性のあるヴァーチャル空間(無限のプロセス、無限のアーカイブ)から、複数の、有限の可能性としてのモノを切り出す(切断する)ことだ。プロトタイプとしての作品は、決して完成しないが、ある圧縮や充実や短絡や重ね合わせなどを具体的に実現している。そうであることによって、異なる(そして、それぞれに具体性をもつ)エージェントによる多様な部分的つながりを生む可能性がある。というか、結果として様々な部分的つながりを生み得た作品が、事後的に優れた作品となる。
このことは、ハーマン的な「モノの弧絶」と矛盾しない(代替因果とは、弧絶したモノが弧絶したままでどう関係し合うのかという話だった)。モノは、何とも関係しないかもしれないし、弧絶したまま相互作用するかもしれない。
●以上、かなり偏向した要約的なメモ。あと、「俺はプレモダンに戻りたいんだ」という一言はとても印象的だった。