●「現代思想」の人類学特集をぽつぽつ読み始めた。最初の、中沢新一と山極寿一の対談で、中沢新一フロイトの糸巻き遊びの話をしたのを受けての山極寿一の発言がとても興味深い。
《例えばゴリラでもチンパンジーでも、ある個体が集団からいなくなれば、死んだも同然とみなされます。その個体は帰ってきませんから。もし帰ってくることがあったとしても、まったく別のものとして帰ってきます。そしてそれまでとはまったく違う関係がつくられる。でも人間の場合、帰ってくるものとして期待されます。出て行った人はいつか帰ってくる。昔、ゴリラやチンパンジーと分かれた頃は、人間も出て行ったら帰ってこないものだと考えていたでしょう。でもいつかそれが必ず帰ってくる、出て行くのは帰ってくるからだというふうに往復で考えられることが可能になった。だからこそ人間の集団はかなりいろいろなかたちでつくり変えられるわけです。例えば家族が安定して開放系になったということにはそういう理由があります。それと赤ん坊が母親から離されるということは非常に近い関係にあるのではないかと思います。ちょっと大胆な発想ですが。》
《つまり、子どもは小さい頃に母親と離れるのだけど、しかし母親は必ず戻ってくるのだという往還のなかで育つわけです。自分ともっとも近しい人は自分の近くにいるわけではない、離れてまた戻ってくるのだ、というふうにしながら人間形成をするわけです。それがまさに人間の社会を原型づけているというか、そういうふうにして人間は人間と離れられるようになったのです。ゴリラやチンパンジーは離れてしまうともう不安で不安でしょうがない。離れたらとにかく近づこうとする。そして近づくときには、抱擁したり、キスしたり、握手したり、毛づくろいしたりしながら、一生懸命不在の時を埋めようとするのです。それはもう見ていていじましいくらいな熱心さです。人間の場合、「やあ」で済むわけじゃないですか。》
●まず、ゴリラやチンパンジーでは、集団からいなくなったものは死んだとみなされる、再び戻った時にはまったく別のものとして別の関係が築かれる、ということを「面白い」と感じ、その後、それを「面白い」と感じる感覚の方が特異であるのだと気付く(人間の方が例外)ことによって、人間が自分自身の根幹にあるものを知る。こういう自分の知り方が面白い。
(追記。ああ、これはウィニコットの言っていることと同じだなあ、と気づく。精神分析が、このようにして霊長類学や人類学とリンクする---昔流行ったみたいに精神分析の理論を上から適応するということではなく、精神分析の事例を霊長類学や人類学によって検証することを通して、その理論を鋳直す---と、精神分析が蓄積してきた知見から豊穣な富が引き出せるのかも。)