●四時前に目が覚め、眠れなくなってしまってぼんやりしているうちに、書くべき書評のタイトルと書きだしが思い浮かんだので、忘れないうちにメモだけしておこうとパソコンを起動させたら、結局、それから午後までかかって最後まで書いてしまった。それから昨日の分の日記を書いてアップしたら、ああもう夕方だ、という日。
●アルフレッド・ジェルという人類学者が気になって検索したら、「芸術の仕事ジェルの反美学的アプダクションと、デュシャンの分配されたパーソン」(内山田康)という論文のPDFファイルを見つけた(外国語が駄目なので日本語で書かれた論文を探すしかない)。
http://www.ne.jp/asahi/tirtha/vitu/pages/The_work_of_works_of_art.pdf
下記のURLは筆者の内山田靖さんのブログ。
http://www.ne.jp/asahi/tirtha/vitu/
●ジェルは、カント的な「無関心」(例えばヌードの絵を観る時に性的な関心は括弧に入れる、というような)を基調とする美学的な芸術の人類学を批判し、芸術作品は超越的な美の表現ではなく、「仕事をする」ものだとする。作品は、《エージェンシーを行使し、エージェンシーの働きを受けるパーソンだ》ということになる。ここで書かれている、見る人にアプダクションを働きかける力としての「インデックス」や、エージェント(動作主)とページェント(受け手)の複合体である「エージェント・ページェント」という考えも興味深いのだが、最も興味を感じた、「芸術=罠」という考えについてメモしておきたい。ここでは比喩ではなくリテラルに「罠」こそが芸術だと言われている。
●「ヴォーゲルの網」と呼ばれるものがあるそうだ。1988年にニューヨークのアフリカ芸術センターで、人類学の収蔵物のどこからが芸術作品でどこからが人工物なのかという問いかけとして行われた「Art/Artifact」展において、人類学者スーザン・ヴォーゲルは「狩猟網」を現代美術風のインスタレーションによってキュレーションした。それを観たダントは、そこに孤高の美を認めながら、それは芸術作品ではないと批判した。この批判は、狩猟網を現代美術風に展示するという浅はかなキュレーションへの批判としては正当であるように思われる。しかしジェルは、芸術のより根源的な意味において、狩猟縄(罠)こそが芸術なのだとダントを批判する。
《ジェルは西アフリカのファンたちの間でフィールドワークを行ったパスカル・ボワイエの民族誌を引用しながら、罠は単なる道具ではなく、思考を内在させた芸術作品であると言う。この引用は二重の意味で巧みに行われている。第一に、ボワイエが記録した罠の伝承は、叙事詩を歌うファンの賢人がボワイエに語ったものだ。ダントが、ソクラテスアリストテレス、カント、ヘーゲルヴィトゲンシュタイン等の賢人たちが語った芸術の定義を引用したのと同様に、ジェルはファンの賢人の語りを引用して罠が芸術だと言えることを示そうとする。第二に、読者はファンの魔力を帯びた叙事詩が森のものであることを知らされる。知恵は、森に帰属していて、罠はその知恵を体現している。この罠は、ダントが言う単なる道具ではない芸術作品と同じように、より大きなパーソンの部分として精神を自己展開する。》
《ボワイエがこの魔力を帯びた叙事詩がよく罠に対比されることをゼに尋ねると、賢人はピグミーが仕掛けるチンパンジーのために作られた特別の罠について、次のように話した。チンパンジーは人間のように知恵があるから、問題に直面すると、頭の悪いアンテロープのように鳴きわめきながら走り去らず、立ち止まってどうしたら良いか考える。だからピグミーはチンパンジーの腕を糸で捉える罠を考案した。チンパンジーの腕を捉える糸が細いので、チンパンジーは糸を切っていつでも逃げることができると考え、糸を引っ張ったら何が起こるか見とどけようとする。チンパンジーが糸を引っ張った瞬間、毒矢の束が落ちて来る》
チンパンジーを殺すピグミーの罠が体現している知恵、呪術の力、魔力を帯びた叙事詩について賢人が語る物語、その後に続く様々な罠の展示を通して、罠が獲物を捕らえるための単なる道具ではなく、その中に森の知恵と、猟師の思考と、至福の絶頂にある動物が魔の一撃に打たれて命を落とす悲劇的な叙事詩を体現していることを、ジェルは明らかにしようとする。罠は不在の猟師の神経システム、運動システム、蓄えた力を解き放って獲物を撃つ仕掛けを備えた代理猟師だ。罠は猟師の単なるモデルではなく猟師に代って仕事をする点が、言語的なモデルとは異なっている。罠は作り手の猟師に似ているだけでなく、獲物となる動物にも似ている。罠はこれについて語る賢人がいなくても、それ自体で芸術作品として展示することができる。なぜならば、罠は思考をそれ自体のうちに体現し、意図を伝達し、制作者と獲物を表象するだけでなく、両者の相互的な関係を体現し、刻印し、統合するアッサンブラージュだからだ。《ヴォーゲルの網》は、このような意味において芸術作品だ。私たちはあのチンパンジーのように、作品・罠の前で立ち止まり、考え、これを引っ張ったらどうなるのだろうと、罠から伸びてくる糸を引き、罠を働かせてしまう。アートギャラリー自体がこのような「思考の罠」なのだ》。
●このような考えは、作品が自律的に「閉じる」ことで、観者による自由な働きかけに対して「開く」のだという近代的な作品の概念(美学)とは相容れないし、昨日引用した、レヴィ=ストロースによる「縮減模型」としての美術という捉え方とも矛盾する。しかしこれは非常に魅力的で、かつ重要な考えだと思う。
だがこれは、こちらかあちらかという問題ではないように思われる。一から多へ向かう動きと、多から一へと向かう動きは両方重要なのだ。あるいは、現実的に「森の知恵」の一部として機能する狩猟網がある一方、「森の知恵」の縮減模型として(あるいは「森の知恵」の地図として)機能するオブジェも考えられるのではないだろうか。いやここではまさに、狩猟網こそが、現実的な諸関連のなかで機能すると「道具」であると同時に、その諸関連の縮滅模型でもある(「精神」をもつ、パーソンである)ものだと言われているわけなのか。
オブジェクトがメタへと転換し、メタがオブジェクトへと転換するという形で連鎖する「作動主/受け手」たちのネットワークにおいては、どこを切り取っても、一であり(パーソンであり)、多であり(内部に諸パーソンの関連を内包し)、そして部分である(他の部分と連携する)と言えるのだろう。それは作動する流れの一部であると同時に、その流れそのものを表現するものでもある、と。
だがそれは同時に、そんなことばっかり言っててもひたすらとりとめがなくなってしまうので、何時どのタイミングで、どの範囲でそれを切り取って暫定的な「一」とするのかという問題も出てくる。