●月がデカい。
●作品はまず、「何ものでもない」ものでなければならない。それは、目的が事前にあってはならないということだ。しかし、ただ目的があってはならないということになると、無限のプロセス、無限のアーカイブ、あるいは、メタレベルのメタレベルのメタレベルの…、という罠にはまる。それは、作品は目的ではなく、プロセスが目的だ、という風に、目的の位置がズレただけになる。あるいは、目的を、決してそこに到達できない無限遠点に置くことになる。それでは駄目だ。
(それは、何度失敗しても立ち上がる理想に向けての無限回のチャレンジ---永久革命---という、馬の鼻先に人参をぶら下げるようにして人を駆動させるブラック企業的エンジンとなる。)
作品は、目的が事前にあってはならないが、事後的には(複数のあり方で)何ものかであるようになることが望ましい。事前には何ものでもないものが、事後的に、何ものかであったと気付く。新しい可能性は、そのようにしてしか生まれないだろう。
(作品は、無限---崇高---に結びつけられる何かではなく、有限の新しさ---美---に結びつけられた何かだと思う。)
それはつまり、今、何ものかであるものは、決して「新しい可能性」ではない、という意味でもある。今、何ものかであるものは、既に古い。だから、新しい可能性であろうとするのならば、まず、必要条件として「何ものでもないもの(目的のないもの)」でなければならない。ただ、何ものでもない、だけでは足りないのだけど。
今ある問題、今ある文脈、今ある対立、とは、別の場所でひっそりと何かを立ち上げないといけない。はじめた時点ではほとんどの人から関心をもたれないそれが、できれば、一定の人々の関心を集めざるを得ないような何ものかに育つことが望まれる。そのことだけが、今ある問題を解決する(今ある対立、今ある関係を書き換える)かもしれない、新しい何かを生むかもしれない行為だと思う。
(つまり、作品は事後的にのみ政治的であり得る、のではないか。)
しかし、多くのものは、何ものでもないままで忘れ去られるのかもしれない。可能性の種は種のままで消えるかもしれない。でも、そのことを肯定し、それら何ものでもないもの(それを立ち上げようとすること)たちを愛することができる。それが芸術なのではないか。
(でもまあ、端的に言って「それじゃあ生活できない」わけだけど。)