●横浜のSTスポットで乳歯(神村恵・津田道子)+山形育弘「知らせ #2」を観た。
見えないものを見るための修行、という主題。見えないものを見るという時、二つの方向性が考えられる。一つはそれを、五感を出来るだけ研ぎ澄ませることによって意識化できないアルゴリズムを起動させて直観を得る、というようなものだと考える。もう一つは、第六感は、あくまで五感とは異なる自律した感覚であり、自律した第六感を探り当てようとする、と考える。前者の場合は、出来るだけよく見、よく聴き、よく触れ…、という方向にいくが、後者の場合、むしろ、見ること、聴くこと…は、ノイズとなり余計な予断を抱かせて第六感の邪魔をするものとなる。
たとえば、この作品は、三人の演者が観客に向かって「念を送る」という行為で締めくくられる。その時にぼくは、三人の演者それぞれの「念を送る」姿勢や動きが異なっていることを面白いと感じたのだけど、それは真剣に「念を受ける」ことに反してしまう。ぼくはここで、演者たちの言う事を真に受けることはせずに、パフォーミングアーツとして観てしまっている(それとも、演者たちの「念を送る」行為を出来得る限り正確に「見る」ことこそが、念を受けることに繋がると言えるのか)。
あるいは、自撮りの写真と人に撮ってもらった写真の区別がつくのか(自意識は写真に写るのか)という修行で、ぼくは、自撮りの写真が分かるのは腕を前に伸ばして撮るので「肩の形」が違うからだよなあと、やはり「見える」ものを見てしまう(だからここは自撮り棒を使うべきだったのではないか)。
パッと見た時には見えるものが、じっくり見ると見えなくなってしまうということはある。パッと見ると、自撮り写真はあきらかにそれだとすぐに分かる気がするけど、人に撮ってもらった写真と並べてじっくり検討しているうちに、大して変わりがないようにも見えてくる。
これは、修行であると同時にパフォーミングアーツの作品でもある。修行が行われると同時に、修行が演じられている。例えば、演者の一人が散乱する物たちのなかから、どれか一つを選んで、何かしらの形でそれに「念を込める」。そして、それを見ていないもう一人の演者が、どの物に、どのようにして「念を込めた」のかを当てる。これ自体が一つの修行であるが、この修行に参加していない観客がこれを面白く見られるのは、(「刑事コロンボ」のように)観客には予め「答え」が与えられていて、答えの与えられていない演者が答えを得ようとするプロセスを(上から目線で)滑稽なものとして観ることができるからだと思う。ここで観客は、「答え」を与えられることで修行に参加することを拒否され、しかしそれによって劇としての構造が得られる。
見えないものを見ようとしているのか、より詳細に見ようとしているのか、修行をしているのか、修行する劇を演じているのか、この、どっちつかずの胡散臭さが、この作品の重要なポイントだと思う。
「手相をみる」パートでは、手相を見ることは、手相というテキストを読む(解釈する)ことであるのと同時に、それを行うことを通じて、相手がどんな人でどんな種類の答えを欲しているのかを察することでもあることが注目される。手相という見えるものを見るだけでなく、空気という見えないものを見ることになる。そしてこの時、見えるものとしての手相なしでも、この関係が成立すれば、見えないものを見ていることになる。そこで、手相ではなく、占う相手とはまったく関係のない新聞の見出しや図表をみることから、相手の運勢を占うということが行われる。ここでははっきりと、「見えるもの」が方法的に排除されている。つまり、どっちつかずではなく、見えないものを見ようとしている。
とはいえここでも「占い」は演じられた占いであり、占いの客は本気で占い師に相談しているわけではないし、占い師も占い師を演じているに過ぎない。この作品は全体として、二人の姉たちが弟に無茶ぶりをして、弟がそれを真に受けて真剣にそれに応えようとする様を、観客たちも姉たちと共に多少のいじわるさを含んだ暖かい視線で眺めているというような雰囲気がある。緩やかなサディズムを喚起する愛される弟のような役回りとして、山形さんのキャラキターは最適であるように思う。
ここで「修行」は一種の「ごっこ遊び」として遊戯的に提示されている。しかしこのような修行がまったくのお遊びであるというわけではない。修行は、少なくとも真剣に演じられているし、真剣に遊戯されている。「見えないものを見るための修行」は、この遊戯のなかでは真剣に信じられている。
それでは遊戯の外では信じられていないのか。おそらくそれは事前には決められない。この修行が、この遊戯の外でも信じ得るものなのかは、この遊ばれたこの遊戯によって生まれたものの強さや説得力によるだろう。この遊戯によって生まれたものが検討され、それが次の遊戯を生むに足りるものであるのならば、この修行が信じるに足りるものであったことになる。
この修行=遊戯が、遊戯する三人に閉じられているのではなく、あるいは、観客をも遊戯の内側に取り込もうとするのでもなく、一種の「劇」として提示されていることは重要だと思う。観客それぞれに対して、それぞれに異なる遊戯を誘発するために、観客は直接的に修行=遊戯に参加するのではなく、観客としていったん切り離される必要がある。作品は、遊戯そのものではなく「遊び道具」を提供する。演者である三人も、その観客であるわたしも、提供された遊び道具を味わい、検討し直すことを通じて、次の遊びを考えていく。
●もう一つ、この作品には重要な問いがある。師匠なしで修行が成立するのかという問いだ。これは、中央銀行なしで通貨が成立するのか、経営者なしで企業が成立するのか、という問いと同じくらい重要な問いだと思う。