●『シックスセンス』(M・ナイト・シャマラン)をひさしぶりにDVDで観直した。印象としては、(1)ワンカットがけっこう長い、(2)構図にけっこう凝っている、(3)動きが極端に少ない、という感じで、つまり全体を通して「画面」においては「何も起こらない」映画であるようにみえる。勿論これは極端な言い方で、例えば、冒頭、ブルース・ウィリスが侵入者に撃たれる場面で、何かぶつぶつ言っていた侵入者が、銃を取るためにくるっと振り返るという、決定的な出来事(動き)がちゃんと捉えられている。緊迫した時間の持続のなかで、ふいにそれが破られる瞬間の動き、その動きによって取り返しのつかない出来事が起こってしまうこと。しかしやはり、このような事はこの映画ではほとんど起こらない。
この映画の割合長いワンカットのなかで捉えられているのは、そのような出来事そのものではなく、気配のようなもので、カットの持続時間の長さは、その緊迫した気配が蓄積によって「濃く」なってゆく、という事だと思われる。何かが起こるわけではなく、ある気配だけが、静かに蓄積され、徐々に濃度を増してゆく。この映画のなかで、ほとんど不可能のように思われたことが実現してしまうのは、物語の展開のよってではなく、奇蹟的なアクションによってでもなく、この濃度によってなのだった。どんどんと濃くなってゆく気配のなかで、ある時ふと、少年は幽霊を受け入れ、その言葉に耳を傾けるようになり、すると少年は仲間たちから受け入れられるようになり、母親との対話も可能になる。ブルース・ウィルスもまた、ある時ふと、自分が幽霊であることを自覚する。これは、濃縮された気配の圧力に押し出されるようにそうなるのであって、だからそこでは、物語的な整合性とか説得力とかは、割りとどうでもいい。
物語的にはほとんど必要がないと思われる宝石店のシーンは、そのことを示してもいる。幸福なカップルたちの集う宝石店と、ひたすら孤独な者たちばかりが徘徊するこの映画の本線との気圧の違いこそが、宝石店のガラスを割るのだった。
この映画では全ての登場人物が孤独であり、すべての視線や会話が行き違っている。そのような、ひたすら行き違う視線や会話におけるズレが、ズレたままにいくつも重なってゆくうちに、奇跡的にそのいくつかを噛み合わせさせてしまう、というのがこの映画だと思われる。だから、この映画で作用し、機能しているのは、ただ行き違いそのものであって、個々の人物たちの主体的な行動や意思ではない。気配の濃度は、この行き違いの積み重なりを表現するものであるかのようだ。
少年は、他人には見えないものが見えてしまうことで周囲と行き違い、ブルース・ウィリスは、自分が誰からも見えていないことに気付かないことによって、周囲と行き違う。幽霊が見えない教師は、少年が幽霊に対して発した言葉を自身に向けられたものだと勘違いする。幽霊の見えない母親は、幽霊による行為を少年の仕業だとしか考えることが出来ず、少年の言葉を嘘だと考える。妻に自分が見えていないことを知らないブルース・ウィリスは、妻の普通の行為を自身への拒絶の「意思」のあらわれとして読む。ここで、互いに向き合っていると(観客からは)見える者たちは、実際には偶然同じ方向を向いているだけなのと変わらず、まったく別の物を見ている。勿論、観客と登場人物たちもまた、まったく別のものを見ていることになる。
人には見えないものが見えてしまう少年と、自分が他人から見えていないことに気付いていない男とが出会うことで、この映画ははじまる。男は、カウンセラーとして少年を救うために少年の前に姿をあらわしていると思っているのだが、実は男こそが他の誰にとっても存在しない徹底して孤独な存在であり、自身が少年によってしか救われないのだということを知らない。少年は男が幽霊であることがすぐに理解出来るのにもかかわらず、そのことを男には告げない。幽霊ではあっても他の幽霊のように「見た目」が怖くないし、ただ自分の主張を押し付けるだけでなく、元カウンセラーらしくこちらの話も聞いてくれるので、孤独な少年にとっては、都合のよい話相手であるからだろう。それに、男は他の人にとっては存在しないのだから、安心して「秘密」を打ち明けることが出来る(秘密が洩れる心配がない)。ここでの二人も、ただ自身の都合によって相手を利用しているのであり、視線は行き違い、対面しつつ互いに別のものを見ている。
しかしここで生じている、少年には、他人からは見えない男が見えること、男には、カウンセラーとして少年の話を聞く技術があること、という偶然の接点-利害の一致が(この偶然のみが)、この映画全体に散らばった「行き違い」の配置を動かす動因となるのだ。この、たった一つの偶然(利害の一致)の重なりによってひろがる波紋が、ゆっくりと時間をかけて徐々に歯車を組み替えることで、少年には、周囲との和解を、男には、自身の死を受け入れるという認識を、もたらすことになる。それぞれがてんでバラバラに違う方向を向いていた視線が、ふいに交錯することを可能にする。しかし要するにこれは一つの行き違いがたまたまぶつかり合ったことによる「偶然」の作用であり、この映画の世界では、コミュニケーションは、このような奇蹟としてしか存在できない。
●この映画の前半では、少年に見えているもの(幽霊)は、ただブルース・ウィリス一人を除いて、観客には示されず、少年が秘密を告白したあとの後半にのみ、少年に見えている世界が観客に対しても示される。「物語」を語る順番としてはこのようにするしかないのだが、もし、少年が見ている世界(幽霊と生きている人物が同時に存在する)と、ブルース・ウィリスが見ている世界(他の幽霊は存在しないが、ブルース・ウィリスは世界内部に存在する)と、客観的な世界(幽霊は、ブルース・ウィリスも含めて一切存在しない)とが、観客への説明抜きにランダムに並立されていたとしたら、(それはもはや娯楽映画としては成立しないだろうけど)凄く面白くなるように思った。