2020-02-13

●U-NEXTにあったので『嵐電』(鈴木卓爾)を観た。ぐいぐいと押してくる感じの『ジョギング渡り鳥』とはちがって、思いの外さらっとした感じだった。

最初のシーンで、駅に「行き違い駅」という看板が立っていて、これはわざわざのこの映画のためにつくったのだろうかと一瞬思ったのだが、少し考えて、単線の路線で、上り電車と下り電車とがすれ違うために待ち合わせる駅のことを「行き違い駅」と呼んでいるのだろう、と納得した。しかし、「行き違い駅」という呼び名には妙に深読みさせる感じがあり、もしかすると、この看板を見たことから、この映画が発想されたのかもしれないと思った。

(この映画では、京都の嵐電と鎌倉の江ノ電とが空間を超えて交錯したりするのだが、江ノ電でも「行き違い駅」という言い方をするのだろうか。)

主に男女の「行き違い」が描かれるこの映画には、三つのレイヤーがあると言える。高校生たちのレイヤー、若い男女のレイヤー、中年男性のレイヤー。高校生たちのレイヤーは、三つのなかで最も芝居がかっていて、わざとらしいほどに大仰で、そして大勢でわちゃわちゃしている。つまり、いわゆるリアリズム的な描写から最も遠い(現代の高校生なのに8ミリのフィルムカメラを回していたりするところも含め、リアリズム的ではない)。対して、中年男性(井浦新)のレイヤーでは、具体的な出来事はほぼ描かれず、一人の男がただ静かにたたずんでいるだけだ。彼は、奥さんとの間になにか問題(行き違い)を抱えて一人で京都に来ているようなのだが、それがどんなものなのか、なにをきっかけにそのような状態になったのか、など具体的なことはほとんど語られない。井浦新はほとんど、ただ居るだけのような感じで居る(物語を収集していたりはするが)。

芝居がかってわちゃわちゃする高校生たちと、抽象的な存在としてただたたずむ中年男との中間にあって、普通の意味で最もリアルにその顛末が描写されるのが若い男女(大西礼芳・金井浩人)のレイヤーだろう。

このような、それぞれ性格(抽象度)を異にする三つのレイヤーが、それぞれ独自の線を描きながら、映画の一つのフレームを通り抜けてゆき、フレームのなかで交差したり、ぶつかっては、また離れたりするというのが、この映画をかたちづくる運動だと言えると思う。

ただし、この映画の良さを支えているのは、あくまで若い男女のレイヤーであるように思われた。二人の出会い、思わぬ再会、二人の間になにかが通じる瞬間、親しくなることへの躊躇と恐れ、互いに対して慎重に交わされる接触、アクシデントをきっかけとした距離の踏み越え、そして、いい感じになったところで二人の縁がすっと途切れてしまう感触、その悲しみ。これらの描出がとてもリアルで、生き生きとしていて、これが映画の核になっているようだ。

(それに対して、高校生のレイヤーは、もっとわざとらしいくらいに大仰に芝居がかって、非リアリズム的で、もっと過剰にわちゃわちゃして、映画をひっかきまわすくらいの感じでもよかったのではないか、と思った。)