2022/02/28

●『逃げた女』(ホン・サンス)の感想をネットでみていると、「(1)俳優の演技が自然でまるでその場に立ち会っているようだ」という人と、「(2)スタジオで俳優が演技しているところを撮っているようで全然入り込めない」という人がいて、面白い(それと、「何がしたいのかまったく理解できない」という人がかなりいて、それも面白い、確かにホン・サンスの作品は「常識的な映画」から遠いという意味ではゴダール以上なのかも)。

実際、(1)と(2)の違いは微妙で、観る側の姿勢というか受け取り方にも依存するのだろうと思う。ただ、ホン・サンスはだんだんと(2)の方に近づいているようにも思う。エリック・ロメールホン・サンスの違いは、エリック・ロメールがカットを割るところで、ホン・サンスはカットを割らずにズームする、ということではないか(エリック・ロメールもズームするけど、ホン・サンスほどは多用しない)。カットを割らずに(当然、切り返しもなく)、あからさまに凝った絵作りなどもなく、カメラが同じ方向からずっと俳優を撮り続けていると、それはどうしたって「俳優が《演技している》ところ」を撮っているような感じになってくる(観る方向が固定されることで、舞台と客席という位置関係の固定が想起されるからだろうか、不思議なことに、カット割りや切り返しなど、人工的なモンタージュ---そして、人工的な「演技らしい演技」---の方が人は「自然に」感じる)。

このことによって、ホン・サンスの映画は、エリック・ロメール的なナチュラリズム・リアリズムの映画から、ジャック・リヴェット的な「上演の映画」に近づく。とはいえ、ジャック・リヴェットのようなあからさまな上演の映画ではなく、かなりの部分でナチュラリズム・リアリズム的な要素も色濃くある。というか、基本的にナチュラリズム・リアリズムだと思うのだが、そこからすっと逸脱するもの(気持ちの悪さ)がある。だから、人によって(1)と(2)との両方の感想が出てくるのだと思う。この微妙に両者が重なる両価的あり方が、ホン・サンスの映画の「形式」としての面白さの一つであるのではないか思った。

(今、気づいたが、『逃げた女』ではホン・サンスの映画にしては飲酒シーンが極端に少ない。最初のエピソードで、先輩がマッコリをちびちびと舐めるように飲んでいたところと、二番目のエピソードで、食中酒としてワインを飲んでいたところくらいだろうか。あの、緑色のボトルの韓国焼酎が画面に一度も映らない、そして、誰も酔っ払わないホン・サンスの映画は珍しいのではないか。この映画がことさら、シンプルで整然とした感じがするのは、「酔っぱらいがいない」ということもあるかもしれない。)

(そういえば、この映画の最初の場面は、先輩が畑仕事をしていると、隣の家の娘がやってきて、これから面接に行くと言う。で、昨晩、酒を飲んだので顔がむくんでいることを気にしている。酔っ払いはここにいた、というか、酔っていたのは昨晩のことで、今は酔っていない。つまり、最初の場面で、この映画に酔っ払いは「不在である」ことが予告される。そして、この娘の母親は、失踪してしまって、娘は父と二人暮らしだ。最初から、不在としての「逃げた女」が提示される。そしてこの不在の逃げた女=母が、拘束する夫から逃げてくるキム・ミニと重なる。)

(この映画が、男性を嫌悪する女性たちの話であることは、最初のエピソードで先輩と同居する若い女性が語る雄のニワトリのエピソードが物語っている。雄のニワトリは、「この場」での自分の優位を示すために、毎日、牝のニワトリを攻撃する。「本当にひどいんです」と。そして、この映画は、そのニワトリのカットではじまる。)

(とはいえ、キム・ミニが先輩の家で一泊して、翌朝三人で、畑を抜けてそのニワトリ小屋をみに行く俯瞰からのカットはすごくよかった。)

(キム・ミニの姿勢の悪さがいい。姿勢の悪さから「不良感」がにじみ出ている。)