●『ソニはご機嫌ななめ』(ホン・サンス)をDVDで。ホン・サンスに外れなし、で、ホン・サンスの映画がイマイチだと思ったことは、今までないような気がする。
ホン・サンスはおそらく一方で、ヒッチコックに連なっているような作家で(関係-構造の変化を「観客だけが知っている」という映画をつくる)、この映画も、主役の女性ソニが中心にいるようでいて、実は「ソニは存在しない」というような構造-関係性の映画だった。詳しくは、もっと何回も観て分析しないといけないけど、この映画のソニは、清水高志さんが言う「火のついたボール」としての準-客体のような存在で、男たちの間をぐるぐる回っているうちに、男たちの関係の編成を変えてしまうような媒介で、そして最後には(関係が再編成された)男たちだけが残り、ソニは消えてしまう。
(ソニはいわば、サークルクラッシャーの逆のような機能をする。)
ここで面白いのは、ソニが男たちの間を循環してゆくにつれて、男たちから発せられたソニについての(紋切り型の)言葉もまた、男たちの間を循環してゆくということだ(音楽とチキンも循環するが)。一方でそれは、ソニの存在によって男たちの関係の再編が進んでいるということを示すが、他方でその言葉の陳腐さが示すのは、男たちは実はソニのことなどまったく観ていなくて、自分のファンタスムだけを観ているということだろう。教授がソニに対して書く「推薦状」の節操のない変化もまた、そのことを証している。
(一度目の推薦状はともかく、既に恋に目が眩んだ二度目の推薦状では、教授はもうまったくソニを観ていないように思われる。)
しかし一方で、ソニもまた男たちのことなど観てはいない。男たちが観ているのが、自分のファンタスムのなかにいる女であるのに対し、ソニが観ているのは、あるべき将来の自分の姿(自分探し!)だけで、それはどちらも実体のないものだという点ではまったく変わらない。それは、教授の書いた、あまりに空疎な二度目の推薦文を、ソニが将来の自分の理想像だと思ってしまうことによって明らかだ。
(二度目の推薦状よりは幾分かは的確であるように思われる一度目の推薦状に対して不満を感じている時点で、ソニには自分を理解する気がないように思われる。)
つまり、誰も他人のことなど観ていない。しかしそれでも、ある関係があり、その関係のなかに「火のついたボール」が唐突に投げ込まれ、関係のなかを循環することで、関係は確実に再編成されている。男たちはファンタスムを追いかけ、ソニは空虚な理想を追いかけ、主体的にはまったくかみ合わないエージェントたちの行動が、しかし結果として構造を改変してゆく。そういうことを、驚くほどにシンプルで洗練された形で示している。
(他人を観ている、関心がある、理解する、ということと、他人と関係する、ということとは、また別のことで、みんな、自分のファンタスムと欲望しか観ていないとしても、そこに関係は生じてしまっている、と。)
しかし一方で、この映画は、そのほとんどが酒を呑んでいる場面で占められているような、男女のきわめて卑小な情痴話をリアリズムで描いた映画というレベルでも面白い。高度な構造性を支えているのは、みもふたもないリアリズムであるのだけど、構造優先であるが故の、個に対するシニカルさのようなものがない。つまり、主観的感情のレベルでもリアルであり、その尊重があり、それを廃しているというわけではない。だから観客の視線にもまた、作品=構造に注目するだけでも、人物や出来事に感情移入するだけでもない、絶妙なバランス感覚が要求される。
ホン・サンスの映画に出てくる人間の卑小さは、等身大以上でも以下でもなく、露悪的でも癒着的でもない。立派ではないが駄目過ぎもせず、善人ではないが悪人でもない。映画の眼差しは、そのような人物たちの愚かさを、受け入れてはいるが、讃えてはいない。愛情はあるが、執着はない。共感はあるが、没入はしない。誰も他人のことなど観ていないが、それは素晴らしいことではないとしても、特に悪いということでもないとしている。要するに、飄々としている、ということなのだと思う。
(いわゆるオタク的な作品の対極にあるようなもので、「リア充」という言葉を聞くといつもホン・サンスを思い出す。ここで、ホン・サンスと対をなすオタク的映画作家としてすぐにぱっと思い浮かぶのは、アルノー・デプレシャンだ。)
●映画を観終わってから、タイトルで検索してみたら、「主人公ソニに学ぶモテ女の絶妙な“隙”」という記事があって可笑しかった。確かに、ソニは滅茶苦茶にモテるし、それを自覚して利用している。でも、映画を観る限り、ソニがモテて得をしているようなことはほとんどないように見える。唯一得をしたのが、白々しいほどに過剰に誉めている推薦状を教授からゲットしたということくらいだろう。しかしそれは、空々しい誉め方しかしていないので、そんなに効力があるとは思えない。
●この映画で起こったことは、ソニの循環が男たちの関係を再編成したということと、ソニが推薦状を得て自分の未来の方へ向き、関係から離脱したということで、この二つの系列は、交わらないまま、相互作用した、と。
(教授の役をやっている人が、はじめから最後までほぼ一貫してずっと、秋空を見上げているような、わざとらしいくらいの「さわやかな笑顔」をしつづけているという印象があって、それが妙に可笑しかった。)