●シネマート新宿で『自由が丘で』(ホン・サンス)。
ホン・サンスは、増々自由に、増々変になってゆく。一時期、ホン・サンスは韓国のロメールみたいな言われ方をしていたのだけど、ロメールとは根本的に違うとずっと思っていて、この作品を観て、むしろ(晩年の)ブニュエルに近いのではないかと感じた。だが、ブニュエルよりも大胆だと思う。あるいは、基本的にリアリズムで、日常で起こらないようなことは何も起こらないのだけど、それでもどうにもリアリズムにはみえない奇妙な世界を立ち上げているという意味で、『ドリーマーズ』くらいの頃の柴崎友香に近い感じもある。
『アバンチュールはパリで』の最後にある夢の場面がぼくにはとても強烈で、自分でもその感覚をどう考えたらいいのか分からないまま今もひっかかっているのだけど、この作品は、その感覚をそのまま拡大したような感じであるように思われた。
加瀬亮が手紙を出し、それを受け取った女性がその手紙を読み始めることによって物語が動き出す(物語内容は手紙に書かれていることだ)。女は、手紙を階段の上から落としてしまい、順番がバラバラになった便箋を、バラバラの順番のままで読み、女が読んだその順番で映画の場面が立ち上がる。普通に考えれば、手紙を読む女が現在で、読むことによって過去の場面が立ち上がるということになる。にもかかわらず、映画は、この「女性が手紙を読む」という行為がそもそも、(手紙に書かれている)加瀬亮の見る夢のなかの出来事だったのではないかという疑いを生じさせるような妙な終わり方をする。実際、加瀬亮は映画のなかでやたらと長く眠っている。
だからこの映画では、一見、一方が他方を基礎づけている(便箋の順番が過去の現われの順番を決定している)ように見えて、実は、双方がどちらも、相手方の根拠を消去するという関係をもっている。この映画を観ていると、自分が見ているものや聞いているものに、きちんとした「根拠」があるのだということがとても怪しく思われてくる。足下がおぼつかなく感じられる。
普通に考えれば、加瀬亮は日本に戻ってから手紙を書き、女は韓国で、加瀬が帰ってしばらくした後で手紙を読んでいると解釈するだろう。つまり、手紙の内容(この映画の物語)は過去であり、女は既にそれには干渉できない位置にいて、ただ読者であるしかないことになる。しかし、(1)映画の終盤に、手紙を読んだ女が、まるで加瀬がまだ韓国に滞在しているかもしれないと期待してゲストハウスを訪れるかのような行動をとり、しかも実際に女と加瀬が出会う場面が描かれること、(2)そして、女のその行動が、実は加瀬の夢であったというような描写がなされていること――ならば「手紙を読む女」の全てがそもそも夢ではないのかと感じる、(3)さらに、この映画は、時間の順番をバラバラにして提示しているので、時間の経過という感覚、現在時という感覚が成り立たないこと、などから、既に書かれた手紙の内容(過去)と、それを読む行為(現在)との階層が破られ、現在=主、過去=従という関係が成り立たなくなる。過去のなかに現在が入り込み、虚構のなかに現実が入り込み、どちらがどちらか分からなくなる。
加瀬の書いた手紙を読んだ女が過去を想起しているのか、加瀬が、自分が書いた手紙(しかしそれは未だ書かれていないはず)を読んで自分のことを思う未来の女を夢みているのか、どちらかわからなくなる。そうなると、この「手紙」を書いたのは「誰」で、それは一体「何時」書かれたのかということがわからなくなってくる。もしかすると、この映画において実在するものはただ手紙だけであって、この「手紙」自身が、自分を読んでくれる女の夢を見て、さらに、その女が「読むことによって想起する」手紙の内容の夢までを見ていて、その双方が混じってしまった、ということではないか。そんな風に考えると、このきわめてシンプルな映画が、まるで『インランド・エンパイア』みたいな、わけのわからない構造をもっているかのようにさえ思えてくる。
(例えば、この映画の主な物語=手紙に書かれた内容の一つに、加瀬が、カフェの女店長と性的な関係になる場面があるのだけど、もしかすると、この場面すらも加瀬の夢か妄想ではないか、という感覚・疑念に襲われてしまう。あるいは、加瀬が探している女――手紙を読んでいる女――など本当は実在していなくて、加瀬はいもしない女を探し、妄想しているだけではないか、とまで思えてきてしまう。)
まあ、それはちょっと過剰にひねり過ぎの「読み」かもしれない。この映画は普通に観れば、ごくありふれた出来事が淡々と、飄々と語られている映画にみえる。しかし、この映画の「開きっぱなし」で閉じない(地に足がつかない)捉えどころのなさは、あえてそのくらいの「わざとらしい」「やりすぎ」の解釈を強引にでも当て嵌めなければ回収できないくらいに奇妙で不安定なもののように、ぼくには感じられる。そもそも、あらゆるものごとがあまりに「いきなり」起こる。その出来事の内のいくつかは、互いに関連が見出されることで事後的に物語として見出されるが、しかしそうではないいくつかは、提出されたまま放っておかれる。
坂道の上にいきなり立っている、金髪に金髭で韓国語を流暢に話す白人男性は何なのか。加瀬亮がトイレに閉じ込められるのは何故なのか。ゲストハウスの隣の部屋に泊まる女に会いに来た、体のデカいちょんまげ男は誰なのか。手紙を読む女と喫茶店の女主人との立ち話が成立してしまうのはどういうことなのか。女が手紙を落としてしまった時に、拾い忘れられた一枚の便箋には何が書かれていたのか。それらは些細なことであり、謎にさえならないくらいにあっさりと放置されるが、忘れてしまうことが出来ない程度には心に残る。いや、確かに記憶にのこっているのだけど、ぼくは本当にそれを見たのだろうか。
この映画を観ている時に感じている、根拠が剥奪されたような不安と、しかし、それによって得られる薄気味の悪い生々しさに、無理やりに何か根拠めいたのを与えようとすると、上に書いたような強引な「読み」になる、ということなのだ。
●まあ、そういうひねくれ過ぎた見方はともかく、出てくる人物の一人一人が、いちいち魅力的で面白いところなど、さすがホン・サンスだなあと思う。