●『ユリ熊嵐』第一話。快調な滑り出しという感じ。とても楽しい。
「ピングドラム」では、まずなんといっても「せいぞーんせんりゃくー」で、がっつりと人の心を掴んだのだけど、「ユリ熊嵐」では、そのような一発掴みはなくて、そのかわりたくさんのギミックがいろいろ散らしてある感じ(「デリシャスメル」は、それだけでは「生存戦略」ほどのインパクトはないが――せいぜい「ファビュラスマックス」くらいの感じ――様々な合わせ技との関係で生きる感じ)。
ただ、主題的には「ピングドラム」や「ウテナ」に比べると単調になるかもしれないという危険を、ちょっと感じる(まあ、でもまだ一話目だから…)。「透明な嵐」というのは要するに集団のなかで発生する同調圧力的なイジメ的なものの力で、それに対し「好きをあきらめない」というのは、群れの空気に埋没しない個と個の関係を貫くということで、そこに「承認(超越的な裁き)」とか「熊」とかいう外的な力の要素がどう絡んでくるのか(裁きとは理性による力であり、熊とは野生による力と言える)、というのがざっくりした構図だと思われる。つまり、「透明な嵐」と「好きをあきらめない」の相克は社会のなかで生じる(社会的で実践的な)軋轢であり、「裁き(理性)」と「熊(野生)」とは、社会の外からやってきて社会へと作用する力だと言える。でもそれだとやはりちょっと図式的すぎるというか図式が単調だと思われるので、そこに今後どんな展開や変化がみられるのかを期待して待ちたい。
「ピングドラム」にしてもこの作品にしても、最近の幾原邦彦には宮沢賢治(あるいは、宮沢賢治を読む中沢新一、または「カイエ・ソバージュ」)的な成分がけっこう濃いように思えるのだけど。
「ウテナ」でも「ピングドラム」でもそうだと思うのだけど、幾原邦彦の作品はとても理知的で論理的にできている。幾原本人が、理性的だったり論理的だったりする発想や考え方の人なのかどうかは知らないけど、出来上がった作品が結果としてそのようなものになる、ということだ。だから、幾原作品は、メタファーを読み取ろうとしてもダメで、ロジックとして読み取ろうとしなければ読めないのだと思う。そしてそのロジックは、神話的なロジックで、感覚可能な要素を用いて組み立てられたロジックなのだと思う。
逆に言えば、作品が既にロジックとして組まれているので、そこから、自由で豊かな読みを引き出す、ということは困難なのだと思う。そのような意味でも神話的な作品だと思う。
(つまりそれは、図式が多少単調でも、あるいは破綻があったとしても、欲動の力で突っ切ってしまうという絵描き系の監督――宮崎駿や庵野秀明――とは、作品の組成が基本的に違っているということだと思う。)