●『5つ数えれば君の夢』(山戸結希)をDVDで。これはすごかった。男の子のいない(まったくいないわけではないけど)『台風クラブ』という感じ。
この映画の素晴らしさを端的に表しているのは、なんといっても屋上の空間の造形だと思う。物語的に考えれば、普通だったら学校の中庭とかの設定であるはずの空間を強引に屋上にしか見えない場所へもってきて撮影している。屋上なのだけど、縦に細長い空間で、手前と奥とに出入り口が二つあり、そこを通り抜ける渡り廊下のような機能が空間に加わっている。なぜわざわざ屋上を通り抜けるのかは謎だが、生徒たちは屋上を通り抜ける。屋上という、他から切り離されて宙に浮いたような感じと、渡り廊下という、学校のなかでどこかからどこへ向かうための繋ぎというか、動線の一部として機能する空間の感じとが一つの空間として組み合わされている。
屋上の二つの出入口のうち、一方は主にダンスをやっている女の子(や、文化祭実行委員)が出入りする出入り口であり、反対にあるもう一方は、その屋上で花壇をつくっている園芸部の女の子(や、文化祭実行委員長)が出入りする手入口であり、その中間に、二人の関係を媒介する花壇がある。それぞれの出入り口をもつこの二人は中間にある花壇で出会い、それぞれの出入り口に戻ってゆくので、この空間を横切らない。空間を横切らないこの二人にとっては、そこは屋上的な宙に浮く空間であり、そこを横切ってゆく別のグループの女の子たちとっては、そこはたんなる通路の一部である。彼女たちそれぞれにとって、そこはまったく別に意味をもつ空間だけど、そこは同じ一つの空間でもある。
●映画の前半は、女子高のなかの独特な人間関係を繊細に拾ってゆくような映画にみえる。この手の話は一つのジャンルを形成していると言えるくらいに過去の作例がある。しかし後半になると、いわゆる繊細なリアリズムは放棄され、サブカル演劇的というか、ポエム的な長セリフの怒涛の応酬という展開になる(ちょっと『日本の夜と霧』とか思い出した)。アイドル、女子高、サブカル風ポエム、という三つ巴は、ぼくの趣味から言えばあまり得意なものではない。実際、後半の長セリフの応酬では「ちょっと勘弁してほしい」と感じてしまうところもあった。でもそういうことは些細なことだと思わされるくらい、圧倒される映画だった。
●登場人物たちが、「内側が広がっていって外側との境がなくなることってない?」「それ、狂ってるってことだよ」みたいなやり取りを交わす場面がある。前半の、一応リアリズム的な抑制によって制御されているところから、後半の、まさにそのような意味での狂気のパートに入ってゆく、狂気のパートの立ち上がりとも言える場面がある。兄に対して近親愛的な強い愛情をもつ文化祭実行委員長がいて、文化祭の前日に、夜食を差し入れに来た兄と委員長が二人で会話する場面だ。ここから先、登場人物たちは日常会話ではあり得ないような言葉を平然と発するようになる、そのきっかけになる場面。この場面はかなり長いワンカットで撮られているのだけど、この場面の長回しがすごく良くてびっくりした。ここでそんなオーソドックスな長回しをばっちりと決めてくるなんて…、と思う。
ここから終盤にかけて、人間関係の機微みたいな繊細な表現はかなぐり捨てられ、生硬で青臭くて生半可で恥ずかしい言葉を駆使しながら、ひたすら愛の対象に対して必死で語りかける女の子たちの姿が映し出されるようになる。
●とはいえ、この映画がすごいと思うのは、まず何より前半部分の描写の的確さと冴えだ。とにかく空間の造形がすばらしい。エグイ系の女の子たちのグループがたむろする狭苦しい部屋とそこでの人物配置、そこを園芸部の女の子が訪れる場面で、ピアノを弾く女の子が窓を開けるタイミングと外に走る電車とか、すばらしくて、口からおおっという音が漏れる(背景の窓の外に電車が見えるカフェの場面とかもあり、いろんな場所から電車がちらちら見えるので、「中央線」が、この映画の主要な登場人物の一人だと思う)。
空間の狭さを上手く使った学園祭実行委員のいる部屋での、俳優の動かし方やキャラの立て方も面白い。トイレの場面の撮り方とかすごく不思議で面白い。教室から、文化祭前の廊下の喧騒を眺め、「関係なさすぎる…」と一人つぶやく園芸部員の前に、唐突にダンスする子があらわれる場面のモンタージュが、何気ないのだがとても新鮮。あと、画面のなかで主な芝居をしている人たちではなく、背景にいるエキストラみたいな人たちの配置と動かし方が常に面白くてわくわくする(ちょっと、ローザスのDVDを観ているような感覚もある)。冒頭の教室の描写とかも、まず最初のワンカットで「この映画は当たりだ」と思えるようなものだ。
空間があって、人物などの動くものがあって、カメラがあるという三者の関係のなかから、何かしらの「動くもの」を掴み出してくる本能的な力がある監督なのではないかと思った。
●映画の前半は、ほとんど同じように聴こえるピアノによるBGMが、ほぼひっきりなしに繰り返し流れづけるのだけど、この、すごく大胆な音楽の使い方が、決して軽い展開ではない前半に、あたかも軽やかに流れるものであるかのような矛盾した印象を与え、それが後半のへヴィーな展開との、連続性と対照という両方をつくっているように思った。
●あと、この映画はなんといっても顔の映画でもあると思う。この監督のクローズアップは遠慮がないというかえげつない。顔というのは、身体の一部でありながら、身体から切り離された「表現」を担う部位であると思うのだが、その、いったん身体から切り離されたものが、その人の身体性を「表現する」という形で、(再び)別のレベルの身体性を色濃くもつという感じがあって、そのような意味で、見てはいけないものを見てしまっているような後ろめたさとともにしか見られないような顔が映っている感じ。
●いわば、(身体運動も含んだ)面白い空間造形と、リアルで生々しい顔と、リアルといえない浮いた言葉という、三つの噛みあわない層による軋みが生むリアリティで出来た映画と言えると思う。