●お知らせ。明日、五月十七日付けの東京新聞夕刊に、なびす画廊でやっている「許された果実」展のレビューが載る予定です。展覧会は来週の土曜(二十五日)までです。
●DVDで『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観たのだけど、ぼくにはこれはダメだった。最近のホウ・シャオシェンキアロスタミは、やっていることがとんでもなく「すごい」ということは認めるけど、それが「面白い」かというとそれはまた別、という風に思ってしまう。
例えば、冒頭のバーの場面も、すごいと言えば確かにすごいのだけど、でも、女の子の電話での会話にしても、なんでこんな嫌な感じの会話を延々と撮っているのかがよく分からない。せっかく、すごく高度な画面と音の構築がなされているのに、そこで展開される会話がなんでよりによって「これ」なのか、と思ってしまう(物語上の必要と言ってしまえばそれまでだけど)。映画の冒頭からすごくいやーな感じが充満して、しかもその後の、でんでんが女の子にねちっこく絡んでくるこの「ねちっこさ」にさらにうんざりさせられてしまう。核心的なことを何も言わないまま、うだうだ感情的に押し引きしているだけの会話がまだつづくのか、と。これからしばらくはでんでんの出ている映画を観たくないと思ってしまうくらいに、ねとーっとした質感が迫ってきていて、おっさんはやくどっかいってくれないかとイライラしてしまう。
その後のタクシーの場面はさすがに素晴らしいと思うのだけど、それでも、ここで「上京したお婆さん」を出してくるのはいかにもあざといと感じてしまうし、さらに、後になってここに伏線が埋め込まれていたことが分かると、げんなりしてしまう。そして、爺さんの部屋に着いた後の女の子の振る舞いをみると、「なんだこの女、バカじゃねえの」という言葉が湧き出してくるのを抑えるのが難しい。この安い天真爛漫っぷりは何、と思う。この部屋の空間(こんな窓のある部屋をどうやって見つけたのか)はすごく素晴らしいのだけど、なんだこの女は、なんだこのジジイはと、イライラを通り越して呆れてしまう。そもそも、こんな素晴らしい空間でなんでこんなつまらない場面を撮ろうとするのかがわからない。というか、なんでこんな場面を観つづけていなければいけないのかが分からなくなってくる。
この辺りで、そろそろDVDを止めようかという気持ちになってきているのだけど、加瀬亮が出てきて映画が引き締まるというか、ようやく「なんだかなあ」という感じが後退して、画面に入り込めるようになる。加瀬亮の登場から、自動車修理工場までの場面の展開は素晴らしくて(なぜかスクリーンプロセスみたいに見える不思議な自動車の走行場面もあった)、なんだかんだいってもやはりキアロスタミはすげえと思うのだけど、加瀬亮が退場した後はまた、うーん、という感じになってしまう。
(女の子も爺さんも加瀬亮も、すべての登場人物が理解できないし魅力も感じられず共感もできない人物だという点では同じなのに、加瀬亮にだけ、思わず見入ってしまうような感覚的充実があり、他の二人はあんまりちゃんと見る気にならないというのは、一体どこが違うのだろうか。これは、人物の心理とか物語とかとは別のことだ。)
隣(裏?)のおばちゃんの登場のさせ方とかも、ちょっとわざとらし過ぎるように思う(窓と煉瓦の柱とで二重フレームになる引きの絵をこれみよがしに示されてもなあ、と思う)。ラストにしても、キアロスタミらしいと言えばらしいのだけど、でも、もうこういう終わらせ方は分かり切っているという気もしてしまう。俳優にしても、加瀬亮以外はなんでこの役にこの人が選ばれているのかが、うまく納得できなかった。
●ぼくがこの映画に感じる違和感は、もしかすると、ぼく自身がここに撮影されている現代の東京と近い空気のなかにいることで、距離がとれなくて、この映画がたちあげているフィクションの次元をうまく捉えられていないせいなのかもしれないという気もする。外国の観客や、あるいは二十年後、五十年後の観客であれば、もっと抽象的な次元でこの映画を捉えることが出来て、ぼくがいま感じているような違和感の壁はすっと通り抜けて、この映画の形式的な生々しさに触れられるのかもしれない。あるいは、舞台が外国で、外国語で撮られていたら、見え方はずいぶんと違ったかもしれない。とはいえ、現代の東京の空気を知っていれば、この映画に対して「これはないでしょ」と感じてしまうのも仕方ないと思う。