●黄金町のジャック&ベティに『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』を観に行った。六回目だけど、横浜で上映されるなら観に行かなくては、と。この映画をぼくは、新宿で二回、東中野で一回、多摩センターで一回、八王子で一回、横浜で一回、観たことになる。
映画のはじめの方に、しゃがんで靴ひもを結ぶ中西の背後から古賀さんが歩いて来て、次のカットではあたかも古賀さんが中西の身体をすり抜けて進んでいるかのようにつながっているモンタージュがある。ぼくにとって、このモンタージュがこの映画の世界を最初に強く印象付けるものだった(冒頭のノイズもあるけど)。ほぼ、我々が知っているこの現実と同じにみえるけど、微妙なところで物理法則が異なっている。あるいは時空が歪んでいる。この映画の物語がもっている世界観を、この映画の演出はそのような形で実現させていると思う。
あるいは、絢が古賀さんのために買ってきたタバコを古賀さんに向かって投げ渡すカットと、次の、古賀さんがそれを受け取るカットとの間に、あきらかに二拍くらいの遅れがある。この遅れの間に、タバコはこの世界の時空から消えてしまっているように感じられる。同様に、終盤で、近藤さんが中西を突き飛ばす場面でも、突き飛ばす近藤さんのアクションと、水の中に倒れ込む中西のアクションとの間に遅延があるように感じられる。ここで謎のロスタイムに落ち込んだ中西は、近藤さんから無事逃げ帰ることが出来たとしても、古賀さんの先輩の力でもどうにもならない「何か」に変質してしまっている。絢が電話をかけている相手は、タバコや中西が一瞬だけはまってしまったエアポケット時空から帰ってこられなくなった人なのではないか。
中西が、謎の「伊藤さんの女」から誘惑される場面で、その前のカットで中西が指をパチッ、バチッ、バチッと鳴らしているリズムと、次のカットで「伊藤さんの女」がアルミ缶をペキッ、ペキッと鳴らしているリズムが同期して繋がっている。このリズムの同期が、中西を「伊藤さんの女」の誘惑へと引きずり込むのではないか。
中西が坂道を駆け上り、駆け下る場面で、背景に空き缶が転がる音がしている。そして、坂を駆け下る中西が坂の途中でぐっと立ち止ると、その傍らには立っている缶がある。これは、駆け下る中西が重力に逆らってぐっと逆側に力を込めた、その力と同期するように、坂を転がる缶もぐっと力を受けて立ち上がるのではないか。この映画の時空は、そのように出ているのではないか。
近藤さんがカフェで歌う場面で、カメラは外にあり、ガラス越しに近藤さんを捉えている。音も、車の走る音や虫の声が大きく聴こえ、近藤さんの歌声は小さい。しかし、近藤さんの声は徐々に大きくなり、聴覚的には近藤さんに徐々に近づき、虫の声は抑えられる。しかし、視点は窓の外にありつづける。この時、空間はどうなっているのか。
この映画の世界を「夢のよう」なものにしているのは、大げさな幻想的装置ではなく、このような、通常の秩序とは別の繋がりが張り巡らされ、様々なブランクをも含くんだ時空のあり様だと思われる。
●黒川監督と、『牯嶺街少年殺人事件』の話をした。今、上映されているデジタル・リマスター版は観ていないけど、ぼくはこの映画を九十年代に十回以上観ている(ゼロ年代以降もVHSでさらに何度か観た)。九十年代にもっとも繰り返し観た映画のうちの一本だ(黒沢清の『消えない傷跡』や『蜘蛛の瞳』と並んで)。
たとえば襲撃シーンのあの暗闇について、黒川さんは、あまりにも映画的な表現であるあの「暗闇」をデジタル・リマスター版で観ることの転倒した倒錯のような感覚に、ちょっとした違和感のようなものをもった(意訳です)、と言っていた。ぼくは観ていないけど、その感じが少し分かる気がするのは、ぼくにとって「牯嶺街」は九十年代の空気と分かちがたく結びつき過ぎていて、そこからうまく切り離して考えることができないから。九十年代という地のなかにある「牯嶺街」という映画を、今、デジタル版で観ることで、今、観ているこの映画に九十年代のノスタルジーを巻き込んでしまうのではないかという感じがある。
(あくまでぼくにとってということで、「牯嶺街」という映画が古くなっていると言いたいのではない。)
映画全体に広がるあの暗闇、あるいは、吹奏楽を練習する音のなかで男の子が女の子に強い言葉をぶつける場面のあの空間の感じ、物売りのお姉さんのいるトンネルのような空間、医務室のような場所でアメリカ映画の真似をする二人、そういう一つ一つがぼく自身の九十年代の感情と結びつきすぎていて、今、この映画を観ることでその感覚がものすごい濃度で襲ってきそうで、どうしても敬遠する感じになってしまう。観たら観たで、絶対素晴らしいと思うのだけど、それを観直すのは、九十年代がぼくのなかでもう少し遠くなってからかなあ、と。
新しい体験として、デジタル・リマスター版として受け入れられる自信が、ちょっとない。デジタル化されて解像度の上がった画面を通じてそこからフィルム的演出を見出すことの倒錯感のようなものを感じるのと同様に、いま、「牯嶺街」を観ることでそこに九十年代を見出してしまうことを避けたいと思ってしまうのは、作品中心主義的な偏ったイデオロギーなのかもしれない。観に行って、思い切りノスタルジーに浸ればいいのかもしれない。でも、「牯嶺街」という作品は、それを抑制させるようなものがある気がする。
あるいは、実際に観れば、ノスタルジーなどを巻き込む余裕などなく、作品の力にただ圧倒されるのかもしれない。
(八十年代の相米慎二、九十年代の黒沢清、エドワード・ヤン---というか『牯嶺街少年殺人事件』---は、一種のトラウマに近い経験なので、フラットには扱えないのだった。)
(こういう面倒な思いとは関係のない初見の人は、観た方が絶対にいいと思うけど。)
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