DMM.comの「成人映画」のカテゴリーのコンテンツの一つとして、『ザ・ストーカー』(鎮西尚一)が観られることを発見した(さらに、『女課長の生下着』と『Ring My Bell』も観られる)。みつけてすぐに近所のコンビニに走ってDMMカードを買ってきて、観た。
九十年代の終わりにレンタルビデオでこの映画を観ているのだけど、その時は、『キラキラ星』や『パチンカー奈美』に比べてちょっと抑えた感じなのかとか思った記憶があるのだけど---正直、やや印象が薄かったということだけど---とんでもない。すごく端正でかっこいい。むしろぶっ飛ばしているというか、タイトになったことで飛躍している感じ。こんなに完成度の高い映画だったのか、と。97年の作品。
(『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』に、中西が靴ひもを結び直していると、後ろから来た古賀さんがしゃがんでいる中西をすっとすり抜けて前へ出てしまうみたいな不思議なモンタージュがあるのだけど、あの場面は、『ザ・ストーカー』で、斉藤陽一郎が横断歩道の途中で靴ひもを結び直しているところを、後ろから長宗我部陽子がすっと追い越してゆく場面から来ているのではないか、という妄想を抱いた。『ヴィレッジ…』の黒川監督は『ザ・ストーカー』のスタッフの一人。)
●この映画は、「他人の部屋に承認を得ずに不当に侵入すること」と「他人の部屋に正当な承認を受けて入ること」との間、そして、「承認を受けずに他人を尾行すること」と「承認を得て他人と一緒にいること」との間を行き来する映画だと言える。これは、不当/正当という違いであると同時に、関係の一方向/双方向という違いでもある。とはいえこの関係が二者間で起こるのではなく、三者以上の視点が絡み合う時、二項対立を越えて複雑になる。
斉藤陽一郎は、ピッキングの技術を利用して「留守中の若い女性の部屋に忍び込む」ことを欲望する客に、金と取ってその仲介をする仕事をしている。彼の客である中年男が秦由圭の部屋に忍び込む時、その行為は不当であり関係は一方向である。そして、客の後始末をしている時に帰宅した秦由圭と出くわしてしまった斉藤は、顔は見られなかったものの存在を知られたので、進入は不当であり、関係は半-双方向であると言える。秦の友人の長宗我部陽子が、合い鍵を使ってこっそり秦の部屋に侵入する時、行為は不当であるが二人の関係は双方向である。しかし、長宗我部が友人として、秦の了承を得て彼女の部屋に留まる時、それは正当で双方向となる。秦の恋人である水橋研二が二人で秦の部屋に入る時、それは正当かつ双方向である。
ここで、存在は知られたが特定はされていない不当-(半)双方向の斉藤と、不当-双方向と正当-双方向の間を揺らぐ長宗我部が、この作品の関係性に動きをつくってゆく存在となるだろう。
秦と斉藤の関係が(半)双方向であるとはどういうことか。斎藤は秦を知っている。しかし秦は、斉藤の声は聴いているが顔は見ていない。つまり、現時点では、秦←斉藤の通路はあっても、秦→斉藤の通路は繋がっていない(一方向である)が、この通路がいつ繋がるか分からない(繋がる可能性が常にある)。
秦と長宗我部の関係が、不当-双方向と正当-双方向の間を揺らぐとはどういうことか。秦と長宗我部は友人であるという意味では関係は双方向である。しかし、長宗我部は秦に対して恋愛感情を持ってももいる。だから、秦と水橋の関係が気に入らないし、気になって仕方がない。この恋愛感情については、秦は知らない。つまり友人としては双方向だが、恋愛感情としては一方向であり、ここでもある意味で関係は(半)双方向と言える。友人としては正当に秦の部屋に入る長宗我部は、隠している恋愛感情によって部屋に不当に侵入する。
秦と斉藤との関係においても、秦と長宗我部との関係においても、秦は相手の知っている情報の半分しか知らないことになる。斉藤と長宗我部は、相手の知らない「半分」に隠れるようにして、愛の対象である秦を尾行する。だがここで、斉藤と長宗我部との関係も非対称的である。斉藤は長宗我部の存在(秦との関係)を知っているが、長宗我部は斉藤の存在を(少なくとも途中までは)知らない。斉藤はその非対称性を利用して「秦を尾行する長宗我部」を尾行する。
斉藤が秦に接近し過ぎることや、長宗我部が秦の恋人である水橋を誘惑したりすることで、このような関係の幾何学模様に破綻の危機を感じさせるサスペンスが生まれる。しかし、関係はそのような危機によっては破綻せず、破綻は、秦を尾行する長曽我部と、秦を尾行する長宗我部を尾行する斉藤という、二つの次元のことなるはずの観察者が不意に接触することであげてしまった「声」をきっかけに生じる。
トポロジーに決定的な変容が生じるのは、声によって斉藤の正体に気づいた秦が、変装して斉藤の客となり、「自分の部屋」にピッキングで侵入することを彼に依頼することによってだ。秦は斉藤を介することで、「自分の部屋に不当に侵入する」ことを実現し、それによって部屋の侵入における不当/正当という対立を反転させる。正当な主が不当なやり方で侵入することで、部屋という空間そのものを変質させる。それにより、斉藤の不当な侵入も(部屋の主に依頼されたのだから)正当な滞在に反転する。斉藤の不当性が、遊戯的、儀式的なものになる。この、正当が不当になり不当が正当になる反転により、互いの立場が入れ替わり、そこで、二人の間に真の関係の双方向性が生じることになる。よって二人は性交する。
ただ、それ(反転による双方向性)はあくまで、秦が斉藤に「自室への不当な侵入」を依頼するという行為を介することで起きるのであり、斉藤がその後、普通に秦の部屋を訪れても彼女は入室を許可しないだろう。その時の斉藤は斡旋業者ですらないのだから、ただの「変態」である。
斉藤のことは気付くことの出来た秦だが、しかし長宗我部との(半)双方向性の残りの「半分」を気づくことができない。長宗我部には、その半分を自分でこじ開ける必要がある。場の変質によって関係の双方向性を得た斉藤のような棚ボタは期待できない。だが、長宗我部の秦への声は届かないまま、この映画の時間は尽きてしまう。
(斉藤が、不当な行為とはいえ自らの技術によって扉を開いたのに対し、長宗我部は、二人の友人関係を悪用して合い鍵を手に入れたというところが間違っていたのかもしれない。)
●このような端正な作品に、エロ動画サイトのコンテンツという場所しか与えられていないというのは理不尽であるように思う。別にエロ動画が悪いとかいうことではなく、この作品は明らかにエロ動画とは別の何かであるわけだから、それにふさわしい場所に置かれるべきではないのか、と。