2022/09/28

Netflixで『罪の声』(土井裕秦)を観た。野木亜紀子脚本ということで観たのだが、なんというのか、脚本をそのまま、可もなく不可もなく、ぬるっと映像化した、という印象の映画だった(同じ土井裕秦監督でも、『花束みたいな恋をした』はそんな感じはなかったのだが)。たとえば、小栗旬の衣装が、「映画やテレビに出てくる新聞記者の紋切型」そのもので、おそらくそれなりに潤沢な予算の映画だと思われ、決して安っぽいというわけではなく、ちゃんとしているといえばちゃんとしているのだが、だからこそなお、一層、工夫がなく見えてしまう。そして、お話そのものも、そんなに面白くもなかった(オリジナル脚本ではなく原作モノなのだな…)。

フィクションと現実の距離感がよく分からない感じだった。明らかに、グリコ森永事件を参照していて、実際、「キツネ目の男」の似顔絵などは、現実のグリコ森永事件と同じものが使われている。なのに、映画では、ギンガ萬堂事件となっているし、犯人グループは「かい人21面相」ではなく「くら魔天狗」となっている。事件そのものは、現実がほぼそのまま引用される。そして、フィクションでは犯人グループも特定される。ここで、現実の事件と、フィクションの犯人たちとの間の繋がりに、どの程度の現実的根拠があるのかがよく分からない。つまり、現実の事件を取材して、そこから全くのフィクションとして犯人像を作り上げたのか、そうではなく、取材を続ける中で、ある程度までは犯人像が見えてきていて、しかし確証までは得られなかったので、フィクションという形にしたのかが、よく分からない。

なぜ、そこが気になるのかというと、グリコ森永事件の顛末から、着地点として全共闘(世代)批判みたいなところに繋がっていくのだが、この繋がりにどの程度の根拠があるのか、この作品からだけでは判断できないからだ。もしこれが、全くのフィクションなのだとしたら、グリコ森永事件を全共闘と繋げるのは、恣意的すぎるように思われる。あなたたちは、社会正義だと言いながら、子供たちの未来を奪っているのですよ、という、割と強い否定的な主張が含まれているのだから、そこまで強く言うには、それなりの根拠が必要ではないかと思うのだが、その(現実的な)根拠が、あるのかないのかが、まず分からない。

犯人グループは一枚岩ではなく、異なった目的や出自の人たちの寄せ集め的な集団であったということになっている(社会変革の思想を持った人は、その一部でしかない)。それなのに、物語の最後には、宇崎竜童と梶芽衣子という、二人の全共闘世代の人物が、まるで事件そのものを代表するかのように(あるいは逆に、劇場型犯罪としてのグリコ森永事件こそが、反体制的運動の行き着く先であり、新左翼的運動を代表しているかのように)、小栗旬星野源から、強い調子で責められる。「あなたたちのやったことで社会が少しでも良くなりましたか」と小栗旬は宇崎竜童を強く問い詰めるのだが、この「やったこと」とは、グリコ森永事件そのものであると同時に、その向こうにある社会変革への運動(そして思想)を指しているように聞こえる。しかし、ここで小栗旬にそこまで言う権利があるのだろうか、と思ってしまう(「声の罪」を負わされてしまった子供たちが不幸になったというのは、あくまでフィクション上の話であるはずだし)。

別に、全共闘(世代)批判をやりたいのなら、ちゃんとやればいいと思うのだが、グリコ森永事件を題材としたフィクションの「オチ」のような場所にそれを置くことに、どのくらいの正当性があるのだろうかと疑問を感じてしまったのだ。

(新聞社の文化部にはやる気のない記者がいる、という紋切型も、「社会」に対して「文化」を下にみている感じで嫌だった。)

Wikipediaには、《この事件の犯人については、 「北朝鮮工作員」、「大阪ニセ夜間金庫事件の犯人」、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元あるいは現職警察官、「元左翼活動家」、各種の陰謀説など多くの説があり、未だに議論は尽きていない》と書かれている。そして、この物語では、犯人は、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元警察官、元左翼活動家、そしてそれらのハブとなるヤクザなどからなるの合同チームとして描かれている。なのになぜか、元左翼活動家だけが、その子供の世代である二人の主役から強く責められ、その場面が映画のクライマックスとなってしまう。

星野源が、自意識以前であるような子供の頃に、全く自覚のないまま重大な犯罪に加担させられてしまって、大人になってそれを知ってしまった時に、そのことを自分なりにどう決着をつけるのかという、その問題だけに集中するような話だったら、興味深いものになったかもしれないと思う。そこから始まった話のはずなのに、こっちの視点がどんどん弱くなってしまう。余命幾許もない母(梶芽衣子)を責めるだけでは、この問題は決着しないと思う。

事件に加担させられた三人の子供たちのうち、星野源以外の二人はとても不幸な人生を強いられる。現在まで幸せに暮らしてきた星野源は、そのことでさらに罪悪感を強くする。だが、この「他の二人は不幸だった」というフィクション上の操作は、単に劇的な効果のためのものでしかなく、「意識以前の罪への加担」という主題をぼやけさせてしまったように思われる。他の二人は、単に「悪い大人(悪い親、悪い関係)」のせいで不幸になったのであって、つまり「事件への加担」そのものよりも「生育環境」が問題であって、「意識以前の罪への加担」への罪悪感という、星野源が抱える問題とは「別の問題」として考えなければならないことではないかと思う。

あるいは、「意識以前の罪への加担」という問題と、「悪い大人たちの関係の中に生まれてしまった子供」という問題の、二つの問題を同時に走らせるような物語であのかもしれない。しかしそうだとしても、その二つをもっときちんと切り分けて示す必要があったのではないか。現在幸福である星野源の問題は、ある意味で抽象的なものであり(抽象的だからといって切実ではないということにはならない)、それに対して、実際に不幸や貧困の只中にいる人は、全く質の異なる問題に直面している。

そして、そうだとしても、それが全共闘への批判に繋がっていく必然性は見えない。