2020-09-04

●『MIU404』最終回。なるほど。八話と九話で、(一線を越えた)小日向文世と(踏みとどまった)綾野剛という形で、二人の別々の人物として示された「二つのあり得た可能性(スイッチの切り替え可能性)」が、最終回では、並行世界的な(「シュタゲ」の---物理学的には間違った---用語で言えば)二つの「世界線」として示された。改めて、このドラマを支えている基本が、縦に並べられる因果的連関というより、横に並べられる複数の可能性の分岐にあることが明確になったと思う。ただ、SFではないので仕方ないとは思うが、並行世界の両論併記的な並置を成り立たせるための物語装置が「ドラックによる幻覚」だというのは、ちょっと弱い気がした。

(とはいえ、橋本じゅんの昏睡と覚醒が、星野源綾野剛の昏睡と覚醒を促した---三人が同期するように次々と昏睡=意識消失状態に陥り、同期するよう覚醒する---という展開は、物語の「形」としてとても面白いと思った。)

2020年に東京オリンピックがあった世界と、なかった世界。前者が、星野源綾野剛が「踏みとどまれなかった世界」で、後者が「踏みとどまった世界」となる。このドラマ自体、新型コロナウィルスの感染拡大によって撮影が中断され、放送が延期されたのだし、脚本が書かれている時点では「COVID-19の感染拡大」や「それによるオリンピックの中止」は予測できなかったはずなので、撮影に入った時点で脚本に書かれていた最初にあった結末は、実際に放送された「この結末」とは異なっていたはずだ。つまり、最初にあったはずの「別の結末」から「この結末」へとスイッチが切り替えが起こった。このドラマの現実としての製作過程のなかに、とても大きなスイッチの切り替え(世界線の乗り換え)が起こっていたことになる。ここで、現実の製作過程と、虚構としての物語的主題との同期が発生している。

作中で星野源は、自分の選択の失敗を悔いている。そしてこの「悔い」が、星野源の行動原理(手続きの正当性の遵守)を少しずつ変化させていく。そして、星野源綾野剛とが共に、手続きの正当性の軽視と二人の間の信頼関係の軽視を行った果ての世界が、オリンピックがあった世界となる。この世界では、星野源は菅田将輝に殺され、綾野剛は菅田将輝を殺してしまう。しかし実はこの世界は、ドラッグによる幻覚によってあらわれた世界であり、強制的にドラッグを摂取させられた星野源綾野剛は、橋本じゅんの覚醒に促されるようにしてギリギリのところで覚醒し、なんとか「踏みとどまる」ことが出来る(星野源綾野剛は菅田将輝を逮捕する)。これがオリンピックのなかった世界へと通じる。

このドラマで重要なのは、あくまでスイッチの切り替えであって、自分の意思による選択ではない。この違いは微妙だが決定的であるように思われる。とはいえ、このドラマでは「意思による選択」の無力さを積極的に主張してはいない。登場人物たちは各々、強い意志や思想をもって行動しているし、それが無意味だと踏みにじられるわけではない。むしろ、意思による選択は尊重されている。

とはいえ、意思による選択は能動的というよりむしろ受動的だと言えるのではないか。小日向文世は強い意志と覚悟をもって警察官であった自分を裏切って「踏み越えて」いく。だが、この意思と覚悟とは、様々なスイッチの切り替わりの結果として、彼の元に訪れたもののように思われる。八話と九話で示されたように、小日向文世は、たまたま不幸な偶然によって間に合わなかったのであり、綾野剛は、たまたま幸福な偶然によって間に合ったのだ。綾野剛の意思と選択は、幸福な偶然に支えられて成り立っていると言えるのではないか。ここで、小日向文世綾野剛とは等価であり、小日向文世が「間違っている」と言える根拠を、このドラマを成立させているロジックのなかからどうやって見いだせばよいのか分からなくなる。

最終回における「オリンピックがあった世界」と「オリンピックのなかった世界」ともまた同様に等価であろう。後者が「現実」となったのは、たまたま幸福な偶然によるもので、どちらに転んだとしても、そこに何かしら積極的な根拠があってのことではない。ドラマ内現実である「この世界」は、たまたま幸運にも踏みとどまることができたにすぎない。

だが、二つの状態が本当に等価なのだとしたら、なぜ、前者が不幸な偶然の結果であり、後者が幸福な偶然の結果であると言えるのか。そこには、前者より後者の方が正しい(あるいは、少なくとも「望ましい」)という価値判断が既に働いていることになる。ここで考えられる価値判断の根拠は二つあるだろう。一つは、(どんな困難な状況でも)正当な手続きを踏まなくてはならない。もう一つは、(どんな悪人であろうと)出来る限り人を殺してはいけない。

(とはいえ、この「価値判断の根拠」それ自体に根拠はない。根拠の根拠=メタ根拠はない。根拠の根拠のない根拠を、それでも我々は「神話」として共有している、とは言えるのではないか。菅田将輝において、なんらかの理由でこの「神話」が崩壊している、と。)

おそらく、強くニヒリズムに感染しているという点でとても似ていると思われる星野源と菅田将輝とを隔てているのは、この二つの価値判断の根拠の有無であるように思われる。それは、この根拠を失えば、星野源は菅田将輝に限りなく近づいていくだろうということだ。小日向文世が、「別の世界線」のあり得た綾野剛であるとしたら、それと同様に、菅田将輝は、「別の世界線」のあり得た星野源なのではないか。