●ぼくは「ぼくら(ぼくたち)」という言葉がよほど嫌いみたいで、なんかどうでもいいような細かいところでいちいちそこに引っかかってしまう。ぼくと、別のぼくとが、仲よくなったり、敵対したり、共感したり、違和感を抱いたりする時、決して「ぼくら」的なものを媒介としない、それを間に介在させないということが、ぼくにとっては最低限の戒めとしてある。
「ぼくら」という空気のなかで(それを根拠として)作られる作品、あるいは、「ぼくら」を代表しようと目論む作品、あるいは、ある作者や作品に簡単に「ぼくら」を投影してしまう読者(観者)、いくつかの作品をあつめてその間に「ぼくら」的なつながり(ぼくらの世代、ぼくらの時代、ぼくらの立場、ぼくらの感覚、ぼくらの生活、ぼくらの立ち位置、ぼくらの「現実」…)を見出そうと(捏造しようと)する批評、とにかくそういうものがすごく嫌だ。ぼくらのリアリティでぼくらの物語を語るとか…。嫌だ、という以上のことを言うつもりはないけど、嫌だ。
要するに「ぼくら」というのは、「ぼく」を根拠づけ、承認し、さらにそれを世界にまで拡張させてくれる(拡張した気にさせてくれる)ものであって、「ぼく」の幻想的代替物でしかなく、それはどのような関係も連帯もつくりださないと思う。「ぼくら」はどこまでいっても「ぼく」の自己中心性から逃れられない。そのような議論は耐え難いほどに「粗い」のだ。それは「良くないフィクション」だと思う。
歴史というフィクションに意味があるとしたら、「ぼくら」的なものを簡単に打ち砕いてくれるからだと思うのだが、そうするとこんどは、「ぼくら」の根拠を歴史のなかから探し出して「ぼくら」を正当化しようとしたりするから、「ぼくら」的な人はけっきょく「ぼくら」なんだよなあと思ってしまう。
●そうか、ぼくが「ぼくら」が嫌なのは、そこに正当化への詐術(あるいは正当化への囚われ)を感じるからなのかも。それは自由な動き(連結)、動き(連結)の多様性への開かれとは逆方向を(つまり、意味の遡行的確定の方を)向いているからなのか。
●ただ「ぼく」だけが、この作品を正確に理解できるのだ、という勘違いによって、人は作品と結びつき、芸術へと導かれるのだと思うから、この勘違いそれ自体は悪いものではないと思う(啓示というのは、基本勘違いかだと言える)。だが、もし「ぼくだけ」がこの作品を理解できるのだとしたら、ぼくは、この作品をきちんと理解して、その理解を全うする責任を、作品に対して、芸術に対して、この世界に対して(孤独に)負うことになる。つまり、この「ぼくだけ」は「ぼく」が中心にいるわけではない。だけど、「ぼくだけが」(という「勘違い」によって負わされる)孤独と責任を引き受けることなく、非「ぼく」である他人(それはしばしばぼくにとって鏡像的な他者なのだが)を貶めたり、否定したりすることで(要するに競争や戦いや比較によって「ぼく」の優位を示すことで)「ぼくだけ」の単独性を維持(というか、正当化)しようとするという風に、それはしばしばシフトしてしまう。本来、「ぼく」と世界(芸術・作品)との関係によって負わされたはずの「ぼくだけ」が、いつの間にか鏡像的な他者との関係-競争によって「保障される」ものとなってしまう。この、えらそーな「ぼくだけ(俺様)」が、ちょっとさみしくなって周りの空気とかに気を使うようになると、きっと「ぼくら」的なものが出現するんじゃないだろうか、とか。
●ぼくと別のぼくは、ある部分では共感するが、別の部分では相容れない。ぼくと別のぼくは、ある部分は分かり合えるが、別の部分はまったく理解できない。ぼくと別のぼくは、ある場面では連体するが、別の場面では敵対する。それでも、友人になれる人とはなれるし、なれない人とはなれない。関係というのは、そういうことだと思う。
●とはいえ、政治はほとんど「ぼくら」においてなされる。「ぼくら」を形象化(代理表象)し、その正当性を主張し、この社会のなかに「ぼくら」の占有する領土(象徴的な位置)を要求する。そうしなければ、未だ「名」をもつどの「ぼくら」にも所属しない「ぼく」は位置をもつことが出来ない(存在しないことにされてしまう)。だから、ある種の人はすすんで「ぼくら」の代理表象となり、「ぼくら」を強く押し出すこととなる。それ以外の有効なやり方を、たぶんまだ誰もよく知らない。でも、だからこそなおさら、ぼくは「ぼくら」を、その「粗さ」を、簡単に肯定するわけにはいかない。