●ぼくは昨日の日記で、セザンヌをアラカワみたいだと書き、アラカワをセザンヌみたいだと書いた。あるいは、最初の本でぼくは、マティス横尾忠則との共通性について書いた。もし、学生時代の自分がそれらを読んだら、きっと、「こいつバカなんじゃねえの」と思うだろう。でも、少なくとも絵画に関してだけは、今のぼくは学生時代のぼくをほんの一ミリも裏切っていないと断言できる。それだけは、学生時代の自分に胸を張って言いたい。休講でほかっと空いた時間に、大学の図書館で画集をパラパラめくっていて、とつぜんセザンヌを発見した時、セザンヌをはじめて「分かった」と思った時、というか、セザンヌセザンヌとしか言えない何かとして自分のなかにはじめて入ってきた時、その時の衝撃を(その時に「作品に掴まれた」感触を)誤魔化すようなことだけは一切やっていないし、その時の延長として今があるということは間違いない(そして、セザンヌに裏切られたと思ったことも一度もない)。ある意味で、ぼくはまったくかわっていない。自分でもびっくりする(がっかりする)くらいに。
●こういうことを書くと、すぐに、「特権的な作品」と「特権的な私」との「特権的な出会い」を、ドラマとして(小林秀雄風に)演出している、とか言う人がきっといると思うけど、そんなこととは全然違うということを、ぼく自身がよく知っている。「作品に掴まれる」という出来事は、「特権的な作品(という神話)」とも「特権的な私」とも「出会い」という物語(演出)ともまったく関係なく、ある状態-感覚だけが(なにものにも保証されずに)ただぽかっとある、というようなことだ。その状態-感覚は、事前には予想出来なかったものの「発見」として、その時に「私のもとに訪れた」ものであって、別に「私の感覚」ということではない。勿論、その状態-感覚が、セザンヌからぼくへと伝わったもの(セザンヌが感じていたものと同じもの、恣意的な思い込みや勘違いではなくセザンヌの作品に由来するもの)であるという保証はどこにもない。しかし、その状態-感覚の正当性は、その感覚がセザンヌを「発見する」より前(セザンヌを「観た」ことはそれより前に何度もあった)には一度も経験したことのないものであること、そして、(こちらの体調や状態によって多少バラツキはあるものの)セザンヌを観る度にそれがほぼ正確に反復されること、によって証明される。セザンヌに裏切られたことが一度もないというのは、そういうことだ。