●人を説得する方法には大ざっぱに二つの方向性があって、物語と論理ということになろう。物語による説得は多分に情緒的で直感的であり、ゆえに誤魔化しや誤謬が混じりやすい。無批判に一方方向に雪崩をうって流れがちだということもある。後になって冷静に考えてみると、何故あの時、あんなものに騙されていたのか、ということにもなる。一方、論理は中立的であり、常に反証可能性に開かれている、と言えるだろうか。
論理による主張は、相手に反発を許さないところがある。こちらは理路整然と語っているのだから、それに文句があるのなら、オレの言っていることの矛盾や誤謬を具体的に指摘してみろ。それが出来ないのならば、オレ様の言っていることを暫定的に真であるとみなせ、と。これは非常に乱暴なことではないか。よく分からないけど、それはやはり変だと思う…、というような反論は、あいまいで、情緒的なものだとみなされてしまう。それはまた、(アリーナは開かれているのだから)オレ様と同じ土俵に登らない奴は、その時点で落伍者とみなす、というあまりに手前勝手な感覚を生む。
論理はそれ自体として自律した体系であり、それは「この世界の探求」のためには強い力を発揮するだろう。我々は既に、論理による媒介なしでは世界に触れることは出来なくなっている。論理による帰結である科学やテクノロジーの力を誰も無視出来ない以上、論理そのものを否定することは誰にも出来ないだろう。しかしそれが、人を説得したり言いくるめたり、自己を正当化したりというような、対人的、政治的なツールとして使用される時、非常に強い暴力として作用する。そのことを我々は、二十世紀の歴史から嫌というほどみせつけられてきたではないか。
●アップフィールドギャラリー(http://www.upfield-gallery.jp/)に山方伸さんの作品を観に行った。新聞に書いた原稿の締め切りの都合で、作品そのものは事前に見せてもらっていたのだが、展示してある状態ははじめて見た。その展示は、きわめて斬新で画期的というものではないにしろ、作品の内容にあった必然的なもので、ごく普通に納得できるものだった。しかし山方さんは、「この展示についていろいろ突っ込まれちゃって、自分でも浅はかだったかなあと…」と言っていた。でも普通に考えて、それは突っ込む方が間違ってるのだと、その展示を見たぼくは思うのだが。
山方さんともちょっと話したのだが、作家が、作品のあらゆる側面について、言語化して説明する責任がある、みたいな風潮は、どう考えてもおかしいだろうと思う。作家は、作品そのものについては責任を負う必要があるが、作品を言語化して説明する責任などない(余談だが、最近、「説明責任」という言葉ほど下らないものはないと思う、この言葉ほど、何かを「つくる」ことから遠い言葉はない)。こういうとすぐに、では、作家は何も言わずに黙って作品だけ提出し、その作品そのものだけによって語るのが潔いのだ、という態度と勘違いされてしまうのだが、それもまた間違っている。作家もまた言語を使う人間なのだから、一生懸命につくった作品について、人に少しでも理解してもらうために、いろいろ説明したりするのは当然のことだ。しかしそれは、作品そのものに比べれば取るに足らない付け足しでしかないけど。
一方で、作家はその作品のあらゆる側面に対し、こういう理由で、ここはこうなっているのだ、と、そのコンセプトを理路整然と説明する責任があるという風潮があり、もう一方で、作家は何も語らず、作品そのものだけで勝負しろという風潮があり、これらは実は同じことの裏表でしかなく、どちらも等しく間違っている。一方で、完璧に説明する責任があると言い、もう一方で、完璧に言えないなら黙っていろと言う。これはどちらも、作品というものの軽視であり、人の言語活動に対する間違った姿勢であるように思う(このような風潮は、現代の生き馬の目を抜くアートマーケットのなかで作品が投機的価値を得るためには、作品-作家がその価値を他者に向けて説明-説得する必要がある、という要請にもとづいていると思う)。
人は常に、決して完璧には言えないことを、それでもなんとか言うために不完全な言葉を口にする。完璧には言えないし、完璧に分かっているわけではないことを、それでも何とか伝えようと必死に言葉を発する人がいて、もう一方に、その不完全な言葉を不完全なものとして受け入れ、そこから相手の言いたいことを何とかして注意深く聞き取ろうとする人がいて、はじめて対話が成り立つ。作品をつくる-観るという関係もまた同様のことであるはずだろう。何かあたらしくてうつくしくてめざましいものが生まれるのは、そのような環境においてであるはずだ。
一方に、完璧な論理で武装して相手を言い負かそうとする者がいて、もう一方に、相手の論理の誤謬をついて形勢の逆転を狙う者がいる、というような抗争関係は、作品というものの有り様とはまったくかけ離れている。
●付け加えれば、作品というものは、物語とも論理とも違う説得力の別のかたちを、それぞれその作品ごとにちがった固有解としてつくりあげるということだと思う。