●論理的で明晰な思考というのはいわば、木々をなぎ倒し、土を掘り返して、ジャングルの真ん中にまっすぐな道路をつくるようなものだ。人類はそのようにして活動出来る範囲を押し広げてきたのだし、それによって、誰でもが等しくそこを通れるようになり、その恩恵を受け、より遠くを知り、遠くを意識出来るようにもなった。また、そのような「まっすぐな道」をつくってしまうのは、人類に基本設定された病理でもあり、それに魅了されてしまうことを簡単に否定できない。しかし同時に、それを「耐え難い」と感じることもまた、誤魔化しようのない事実としてある。
ジャングルの真ん中をまっすぐと延びる道を「耐え難い」などと感じることが出来るのは、その「まっすぐな道」の恩恵を十分以上に受けているのにそれを意識しないのんきな者だけだ、という反論はあり得るし、おそらくそれは正しい。しかし、その批判の「正しさ」によって、「耐え難い」という感情、あるいは「耐え難い」と感じることの正当性のすべてが消えてしまうわけではない。人類が「まっすぐな道」をつくりつづけてきたのは、「まっすぐな道など耐え難い」、それはあまりにも粗っぽい振る舞いである、という認識に到達するための下地だった、とさえ言えるかもしれないし。
●『未明の闘争』(保坂和志)は、こちらがようやくその読み方を掴めてきたせいもあるのだろうが、「群像」の先月号と今月号にまたがった「カエル顔の柳春」の場面がめちゃくちゃに面白い。『未明の闘争』のはじめの頃は、読む側としてどうしても肩に力が入り過ぎてしまう感じがあった(あまりにも久々の新作なのでそれも仕方がないことだと思う)のだが、しかし読んでゆくうちにそういう読み方(というか、読む側の構え)は違うんじゃないかと気づいて、もっと気楽な感じで読むようになったらどんどん面白くなってきた。毎月、その号に載っている部分を読んでいて、まとめてつづけては読んでないから、主人公の星川が、どういう経緯で小滝修一と柳春の店に行ったのか、そもそも星川と小滝がどのような関係であるのかを今月分を読んでいる時に既に忘れてしまっているのだが、そういう感じで読んでも全然面白い(柳春が「葬式」というセリフを言うので、ああ、そうだったかと思う)。
究極的な集中力の無さが、実は、無数の点へと同時に向けられた注意によって成り立っている。しかし、空間が粒子状の事物-関心によってみっしりと満たされるような凝縮された緊張状態に向かうのではなく、全体としてはあくまでだらっと不定形に拡散するような感じとしてある。無数の点や方向に向けられた注意や関心が、潜在的な次元ではひろく張り巡らされていて、しかし「書かれたこと」として表面化する(あるいは、意識としてその時々に浮上する)のはその都度、そのうちの一つの点やベクトルなので、話がモグラたたきのモグラみたいに予測不能にあっちこっちに飛び、関心の方向が次々と切り替わる。しかしそのちゃかちゃかした注意散漫な展開は、全体としては、潜在的な一つの(無意識の?)大きな塊のようなものによって支えられているから、場面全体としてはだらっと流れているという感じ。
このような、空間の拡散性と、登場人物の注意散漫な関心の移行は、おそらく『プレーンソング』から一貫してありつづけるものだと思うけど(そのような意味で、折れ曲がったり、よじれたり、飛躍をみせたりしつつも、一本の線がぐいぐいと進んで行く磯崎憲一郎とは対極にある気がする)、しかし以前はもっと理知的な抑制のようなものによって制御され、より安定的に走行していたものが、より大胆に、無防備に投げ出されている感じ。
「カエル顔の柳春」の場面に限らず、時間の流れさえも空間と同様に注意散漫な関心にあわせて拡散してゆく感じで、あまりに自由に場面がかわり、時間が前後する。しかし、だらっとした拡散性によって様々な関心事や時間や空間を自由に交錯させるというベクトルがより過激に実践される一方、他方で、そのような傾向が小説をたんなる混沌や退屈な事実の羅列にしてしまう事に強く抗するような、あるきびきびした弾力性をもった凝縮力のようなものが働いていて、その両者の拮抗こそが小説の運動を生んでいると思う(一方の極が以前より大胆に展開されている以上、必然的に他方の極も同様になるだろう)。それを凝縮力と言うのが正確なのかどうかは分からなくて、ただ跳ねるような弾力性、あるいは弾力のある指向性とだけ言うべきものかもしれない。いや、そういう「若さ」を連想させるような力ではなく、より深く大きな潜在性を抱え込む弾力性と言うべきなのか。「カエル顔の柳春」の場面を特に面白いと感じるのは、その弾力性が特に感じられる場面だからだと思った。
●そろそろまとめて読み返してみたいとも思うのだが、部屋のなかで「群像」が散逸してしまっているので、ちゃんと全部みつかるかどうか…。