●『ガンダムUC』の完結編をiTunesでレンタルして観た。話の落としどころとしては、まあまあ納得できる感じだったけど、作品としてはやや退屈で、一時間半が長く感じてしまった。今までと同じように一時間のなかに詰め込んでもよかったのではないかと思ってしまった。
一応、ラプラスの箱とは何かという謎で引っ張る話ではあるけど、実はその中味があまり大したものではないということは、物語の途中で何度も仄めかされていたし(この物語で重要なのは、ラプラスの箱に引っ張られて顕在化する複雑な関係性と、その流動にこそあって、意外な結末とか、どんでん返しとかは必要ない話だし、そもそも「解決」などあり得ない主題が扱われている)、そして実際にそれは丁度良い感じの「大したことのなさ」だったし、話は収束しつつも未来に向かって開かれて終わる感じがよい塩梅だったと思う。凡庸な締めくくりだけど、この話の締めくくりは凡庸であることが適当であろう、と納得できる。
(演説で始まり、演説で終わるような感じになっているけど、そういえば同じ原作者による映画『人類資金』でも、クライマックスは演説の場面だった)
だだ、話の締めくくりはよいとして、最終話の「この作品」としての見せ場というか、核となるものをどこに置くのかということが、上手く絞れていなかったように思う。見せ場はいろいろあっても、それも「話を畳む」ためにいろんな要素を入れとかなくちゃいけないという感じで、それらが分散して散漫になってしまっているように感じられた。
●この作品全体を通して、フル・フロンタルというキャラクターがとても面白いと思った。この人物は、シャアのコピーでありつつ、その亡霊であり空虚であることによってシャアの否定でもある。シャアという強いキャラを姿形(外見、あるいは固有名)として持ち、しかし内側には何も持たず、多くの他者たち欲望を引き受ける器であり、まさに「公人」であるフル・フロンタル。その、シャア(強い個)でありシャア(個)の否定でもあるような人物が、主人公の敵側にいて、しかし必ずしも敵ということでもない。最後に主人公たちの選択を否定する(逆を行こうとする)のだけど、しかし否定しておいてすっと身を引く。彼は、主人公に付きまとう、主人公の「裏の可能性」のような存在だとも言える(主人公が常に、自分=可能性として存在することに対し、フル・フロンタルは自分を消すことの可能性として存在する)。ならば、シャアが、フル・フロンタルでもあり得るのと同様、主人公のバナージもまた、フル・フロンタルでもあり得るはずだ。だから、バナージとフル・フロンタルとの関係は、例えばバナージとリディがある特定の状況下―関係性のなかで「どうしようもなく対立してしまう」というような意味での(いわばベタな)対立関係とは異なっている。それは一種のメタ関係的な関係で、フル・フロンタルだけが、この作品が描き出す「どうしようもない関係の絶対性(状況)」の外にいるとも言えて、それはある意味ではこの作品の主題を裏切ってもいると思うのだけど、しかし、空虚な器であり、自分を消すことで関係性そのものがメタ化されて人格化したような人物が、(マクガフィンとしての諸関係の網の目を横断する主人公の「裏」の存在として)オブジェクトレベルの関係性のなかに紛れ込んでいることで、この作品が「作品」としての複雑な次元を獲得しているようにも思われる。
●『ガンダムUC』1から6までの感想。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130421