●「Twitterにおける憎しみの地図」というのがあった。≪人種差別、同性愛嫌悪、ダイヴァーシティに関する言葉を用いて、アメリカの15万以上のツイートの感情を分析した地図。≫
http://wired.jp/2014/02/14/twitter-hate-map/?utm_content=buffer2e172&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52129889.html
ビックデータの時代ということか。こういうことが、こういう形ではっきり可視化されてしまうということを、一体どのように受け止めればいいのだろうか。
●上の記事と直接的に関係があるというわけではないが、記事を見てぼんやりと考えたこと。
ツイッタ―というのはある意味、それに書き込む人が自らすすんで、管理者に対して管理のための膨大なデータを提供しているようなものだ。これはツイッタ―を批判しているわけではなくて、もう既に、ある種の(フーコードゥルーズを援用してなされるような)管理社会批判が意味をなさなくなっているということだと思う。
ツイッタ―の画期的なところは、あの140字以下の書き込みの一つ一つに個別のアドレスが割り当てられているところだ、と、人から聞いた。つまり、ブログなどの1エントリという単位よりもずっと細かく、高い解像度で、発言やリンクの分析(データの解析)が可能になる。
アメリカのある新聞社では、自分のところの新聞の記事に対するツイッタ―のリアクションを(おそらくテキストマイニングのような手法で)すべて分析して、そのなかから、この人の発言が他の多くの人に影響を与えるというハブとなる存在を何人か割り出し、こんどはそのハブとなる人の過去の発言を遡って分析し、その人がどのような傾向の話題に食いつきやすいかを割り出して、記者はそのハブとなる人の傾向を意識して記事を書くのだという。
このような事態は、たんにコンピュータの計算能力の増大だけではなく、ツイッタ―のようなツールを使うことで、多くの人が自ら進んで自分の意見を気軽に主張する(データを提供する)ようになったということに支えられている。だがここで、一つ一つの発言は、個別の発言としての意味はもたず、全体としてのある傾向を正確に抽出するためのサンプルという意味しか持たない。
確かにこのような事態は、人類が今まで知ることのなかった新たな次元を可視化し、新たな認識をもたらすだろう。言論や論争、運動などの場では、押しの強い人、声のデカい人、口の上手い人、進んで前に出たがる人の声ばかりが強調されるが、ツイッタ―のようなツールでは、普段はあまり前へ出ようとすることのない人の、日々のちょっとした愚痴や弱音、ポロッと出てしまったホンネなどまでが投稿され、彼らが多くのフォロワーを得られないとしても、データとしては拾われるだろう。それが膨大な数集まれば(テキストマイニング技術なども進むとして)、常識を覆すような意外な事実が見えてくることもあるだろう。その事実が、上の記事に示されたようなものだったとしても。
人類はこれまで、それだけの膨大な(そして「自然」に近い)データを集める方法も、解析する方法も知らなかった。ツイッタ―は、解析の仕方次第で、今まで知ることの出来なかった様々なものが可視化される可能性のあるデータベースであろう。
そして、そのようにして可視化されたものは、人々の行動にフィードバックされ、人々の行動の基準や感覚を塗り替えるだろう。それは一方で、大企業や権力者に利用され、快適でより自然な「管理」へと繋がるだろう。より多くのデータを集めることの出来る立場にあり、そのデータを的確に解析する能力のある者が、そうでない者に対して圧倒的な優位に立つ。おそらく、それは大きな組織であるだろうから、どんなに優秀であったとしてもどのみち「個人」には勝ち目がなくなり、発言の影響力に関しては、個としての能力差などあまり問題ではなくなるのではないか。
(例えば、キュレーター、キュレーションというような言葉が流行っているけど、でもそれは基本的に、人間にとって意味のあるレベルの情報の塊――文脈――がある特定の人間の情報処理能力によってフレーミングされるということだから、今まで、面白い雑誌をつくったり面白い展覧会を企画したりしてきた人がやってきたことと基本的には変わらず、それを誰でもが出来る――可能性としては――ようになったというようなことだ。そこにあるのは未だ「人間の能力」の問題だ。このようなレベルでは、面白い人と面白くない人の格差は歴然とあるし、面白いことをする人は次々と出てくるだろう。そうではなく、ここで問題にしているのは、人間の処理能力を超えた、かつて人類がもったことのない程の量の「人々の営み」の情報がアーカイブされつつあり、それを強力な処理能力をもったコンピュータががっつりと解析し得るようになった、ということだ。その時、ある意味では人間の営みは気象情報とかわらないものとなる。あるいは、人間社会こそがエコロジーの対象になる。)
頭が切れて押しが強く弁が立つ人の発言も、引っ込み思案で口下手で冴えない人の発言も、どちらもたんなるデータの一つであり、データとして平準化される。舌先三寸で人を丸め込む論客や批評家の発言や判断の説得力は、「巨大なデータ解析の結果」の前では無力になる。科学を前にして呪術が敗れ去ったように、データ解析を前にして言論や批評が敗れ去るかもしれない。ビッグデータの解析がもたらす圧倒的な「効果」や「効率」を前にして、それを「批判」し得る言論や言説などあり得るのか。あり得たとして、そこに「意味」はあるのか。
(言論や言説にも、厄年の厄払いや雑誌の星占い程度の意味は生き残るかもしれない。人がオカルト的なものを必要とする限り、言論はオカルトとして生き残り、一定の力をもつのかもしれない。あるいは、宇宙にロケットが飛ぶ時代でも、個人の趣味としてある――個人の身体的経験を組織する措置としてある――パラグライダーのようなものはなくならない、ということもある。宇宙ロケットがパラグライダーや人力飛行機を――最低限の物理法則さえ踏まえるのならば――抑圧しないのと同様に、ビッグデータは個々のキュレーターの「自由(冴え)」を――彼らがそれなりに優秀であれば――抑圧しはしないだろう。しかしそれはお釈迦様の手の内で孫悟空が踊っているのとかわらないかもしれない。しかし、と、そうではないかもしれないじゃないか、と、どうしたら言えるのだろうか…)
前の新聞社の例をみると、確かに、記者はハブの傾向を意識することで読者の反応をコントロールしていると言える。しかしその反面、ハブのもともと持っていた傾向によって、記者がコントロールされているとも言える。そして、どのような存在がハブとなり得るのかは、多数の匿名の人々の動向に依存する。自らは積極的に発言しない人でも、誰をフォローし、何をリツイートし、何をしないかという選択によって、全体の動向に影響を与える(ハブは、選考委員や専門家や資格試験によって任命されるのではない)。勿論そこに影響を与えるのは個々の固有な「わたし」ではなく、無数の「わたし」たちの塊りの偏りでしかないのだが。そこには相互作用が働いていると言えるが、しかしこのシステムの相互作用の「主体」はどこにも見出せない。黒幕のいない陰謀論
(例えば、排外主義的傾向は「傾向」であってその主体を見つけることが出来ず、それが例えば熱帯低気圧の発達と同等の出来事であれば、何に対してそれを批判すればいいのか分からない…、とかいうことになる。その時に必要なのは、言論ではなく有用性のある「対策」だ、ということになってしまう。排外主義的傾向は――正しくない、からではなく――明らかに合理的ではないから、それに対して何かしらの対策がとられる必要がある、ということになる。であれば、その傾向が決定的な害を及ぼす程には大きくなく、利用できる範囲のものであれば利用してもよい、ともなるだろう。「責任」という概念も、責任の所在を明確にして責任者にきちんと責任をとってもらう、という「対策」が、どの程度「有用」なのか、という次元で検討されるしかないだろう。)
●とはいえ、それでもなお、我々一人一人は、閉ざされ限定された「個」として内的な生を生きてゆくしかないのだ。依然として、わたしとあなたは切り離されたままで、わたしは一人で、わたしの欲望、快楽、苦痛は閉ざされていて、そう簡単には他人とシェアできないし、個々人の能力差は歴然とある。わたしにはわたしとしての関心と無関心とがあり、程度の差こそあれ「わたし」が知り得る世界はきわめて狭い。頭の悪いわたしには、頭のいい人の言う合理性が理解できない。嫌いな人と協力し合うのは難しい。利害の対立を調停する絶対的な方法はない。わたしの死は他人の生では代替できない。我々は、一人一人が別の宇宙に住んでいるのではないかとさえ、思うこともある。いっそ、個などなくなってしまった方が楽なのかもしれないが、おそらくそう簡単にはなくなってくれない。
個というのは、呪いなのか可能性なのか。いや、呪いか可能性かという区別はたんに言葉の問題で、言い方の違いでしかない。ある大学のセミナーのようなものを観に行った時、研究者の一人が、「自分の研究が、未来の研究者の研究のために、少しでも役立つものでありたいと思っている」という発言をしたのに対し、別の研究者が、「それ本気で言ってるの、オレはオレが知りたいから研究してるんだけど、そうじゃないの…」ということを言った。「オレが知りたいんだ」というあまりに素朴な発言は、幼稚なエゴに過ぎないとも言える。でも、これはとても強い言葉なのではないかとも思った。個が個としてある限り、「オレが知りたいんだ」という感情を消すことなどできるだろうか。あるいは、消すべきだと言えるのか。これは可能性なのか呪いなのか……、とやっぱり言いたくなってしまうのだけど。
●ということで、誕生日だった。