●ハフィントンポストの武田徹の記事。「支持政党なし」善戦をもたらした"徹底的に孤立した個人"
http://www.huffingtonpost.jp/tooru-takeda/election_japan_b_10953204.html
この記事に完全に同意するわけではないけど、ぼくも「支持政党なし」はアイデアとして面白いと思った。もしこの政党が議席をとった場合、議会のいくつかの議席(この場合、決議のための「票」を意味する)が、政党によって制御されるのでも、一人の自律した政治家(人格・思想)の判断によって左右されるのでもなく、その都度での集計=統計によって生じる集合的な疑似的意思の判断によって決定されることになる。
それは、政治のなかに「政治の否定」が組み込まれるということで、議会のなかに、ネゴシエーション不可能な人格、つまり役人や権力者によって制御も計算もできない(「都議会のドン」のような人にも介入出来ない)、観測するまで結果の分からない「浮遊(量子)議席」が存在することになる。合議(政治)のなかに集合知(統計)という異質なものがウイルスのように混じり込んでハイブリッドになる。これは単純な反語ではない意味をもつと思う。(ハードルは高そうだが)本当に実現すればかなり革新的なことではないか。
議員たちという決まった仲間内での陣取り合戦のなかに「読み」の効かないアノニマスな票(領域)が混じり込む。その動向はその時々の浮遊層の動向そのものでもあり、「票数」以上の効果をもつはず。選挙と無関係な普段の決議のなかにも、常に一定数、無視できない程度の勢力として「政治」の通用しない不確定要素(統計)が含まれる。選挙的な不確定性が、決議の度に常に一定の割合で生じることには、権力の暴走に対する歯止め---その時の権力が保守であろうと、リベラルであろうと---として意味があるのではないか。それによって何かが急激に変わるというのではないとしても、様々なところにじわじわ効いてくるタイプの変革となるのではないか。
ただ、アノニマスな勢力があまり大きくなり過ぎると(まあ、そういうことにはならないと思うけど)、流動性が高くなり過ぎて混沌となるので、まずいと思うのだけど。
●アイデアとしては面白いけど、実際問題としては、あらゆる法案に関する意見を充分な数だけネットで集めるにはどうすればいいのか、そもそも投票率すら低いのにそれは可能なのか、組織票にどう対処するのか(データをどのように集めるのか、そのためにどんなシステムをつくるのかはとても重要だし、そのプログラムは完全に公表される必要がある)、とか、生身の人間である候補者が、様々な特権や権力をもつ国会議員になっても、徹底して「政治家」として活動することを拒否してアノニマスとして振る舞うことができるものなのか---その人はたんに「議席(数)」としてだけ政治家であるべきで、ちょっとでも特権を使って個人の信条による政治的行動をしたらアウトだと思う---そのための信頼をどのようにして確保するのか、など、いろいろ難しい点が多いとは思う。
現時点では、この党の人たちが、この面白いアイデアを実行し、全うできる人たちだと信頼してよいものなのか、という点で判断が出来ない。でも、この面白いアイデアが、もっと多くの人を巻き込んだ、具体性のある動きになると面白いと思う(頭のよいギークな人たちの参加によって技術的な問題が改善される、とか)。
●ぼくは、集合知はけっこう信じられるのではないかと思っている。それは万能ではないし、新しくとびぬけたものを創造するのは天才的な個かもしれない。しかし、「より多くの人にとってのより少なく悪い状態」がどんなものかを探り出すにはよいのではないか。
集合知とはみんなで知恵を出し合うということではない。集合知は、合議や熟議ではなく、統計だ。話し合ってはいけない。話し合ってしまうと、無根拠に自信がある奴や権威的なものにひっぱられるし、口が上手い奴や声がでかい奴や見栄えがいい奴、政治や策略が得意な奴が勝ってしまう。空気を読んでしまい、多様性が消えて丸め込まれる。あるいは必要以上の反発と対立が生まれる。そうならないための集合知だ。データの解析は、怒鳴ったり、絡んだり、懐柔したりせず、穏やかに、静かに進行し、結果を出すだろう。他者と折り合う前の、素に近い、わがままに多様性を発揮する(強い自己主張に至る前に消えてしまうような脆弱な自己主張を含む)データが集められ、解析される必要がある。候補者が有権者を説得し、きわめて限定された選択肢から有権者が主体的に熟考して判断する選挙という(粗い)やり方は、集合知からとても遠い。
集合知は、イメージとしてはビッグデータの解析に近い。あるいは、意識として結像する---意識によって検閲される---前の段階での精神の動きを捉えようとする(ガタリ的)精神分析に近いとも言える。それこそが声なき者の声を聴くことを可能にするのではないか。
(データの収集と解析が「見えないもの」を見えるようにする。実際、科学はそのようにして、この世界の極めて細やかな振る舞いや隠された法則までをも明らかにしてきたのではないか。)
●勿論、統計ですべてを決定すればよいということではないし、対話に意味がないとか、直接民主制がすばらしいと言っているのでもない(例えば、マイノリティが自らの権利を確保するためには、統計ではなく---統計に抗する---政治的運動が必要だろう)。そうではなく、議席のなかに、無視できない程度の勢力として「政治」の通用しない別の原理(統計)が含まれていること、集計してみるまで結果の読めない不確定な穴があいていることには、一定の意味があるのではないかということ。