2022/11/08

●VECTIONで、イーサリアムの創案者ヴィタリックによるソウルバウンドトークンについての記事を読んでいたら、次のような格言が引用されていた。

《those who most want to rule people are those least suited to do it》

(人の統治を最も望むものは、その統治に最も適さないものである DeepL翻訳)

ああ、誰でもそう思うのだなあ、と。

vitalik.ca

VECTIONはそもそも、「死の恐怖」の非宗教的な解除について考えるグループだったはずなのに、最近は政治的なことばかり考えているのだが、それはつまり「政治的な人たち(政治家に限らない)」に心底うんざりしているからなのだと思う。VECTIONが考えていること(の一つ)は、テクノロジーや制度の設計によって、政治からできうる限り「人(個人)の裁量」を減らす可能性を探るということだ。現状、政治家に限らず様々な場面で「権力者の裁量」が幅を利かせ過ぎているように感じられる。なんで、「たかだか選挙に勝っただけ(「金を持っているだけ」「賞を受賞しただけ」「売れただけ」…など)」の奴がそこまで多くを決める権利を持つのかという怒り。

報道番組の動画で、「政治の分断を解消するには、分断を包摂するようなより強いリーダーが必要です」とか言っている人をみて頭を抱えた。そんな奴どこにいるのだ、と。いつまで「強いリーダー依存志向」なのか。

権力者の「裁量を減らす」という時に具体的に考えているのは、「熟議」や「専門知」へのカウンターとしての「集合知」の可能性ということだ。集合知で重要なのは、充分な多様性が成立していることと、投票(統計)であること。あくまで「多様な個別判断」の投票(データをもとにした計算によって生成されるもの)であって、「話し合ってはいけない」のだ。話し合うと、コミュニケーション能力や権威、同調圧力などに引っ張られてしまうから、集合知にとって命綱である多様性が充分に活用されない。集合知においては、コミュニケーションではなく集計とアルゴリズムが重要となる。

(同調圧力とは逆方向の多様性の敵として「フィルターバブル」のようなものもあり、それらを取り除くのは困難なのだが。)

行政という場で考えるなら、「政治家=熟議(本当にそれが成り立っているのかどうかはともかく、建前上では)」と「官僚=専門知」に加えて、「集合知」を表現する何がしかの制度が、政治家や官僚と拮抗できる同等かそれ以上の権力を持つことが望ましいと考える。「人の裁量」に重きを置き過ぎる現状の「選挙」では、民意の反映装置としてあまりに「粗く」そして「遅い」。

(この点について、VECTIONとして近くテキストを発表する予定。)

●もう一つ。陰謀論に本気でハマってしまう人は、残念だがある程度仕方がない。しかし、陰謀論に本気でハマってしまった人を利用する(養分とする)ことで、自らの利を得ようとする人は許し難いという感情がある。深刻な問題は、前者よりもむしろ後者にあるのではないか。自分の利益のために、ネットワークビジネス的に他人を利用しようとする人がいる。たとえば、陰謀論を信じていないのに、陰謀論を拡散するインフルエンサーとして振る舞うことで利益を手にすることは違法ではない(ので取り締まれない)。この点について、VECTIONメンバーの西川アサキが『我が闘争』との類似点を指摘している。現代ではヒトラー的手法が一般化して広まってしまっていて、そしてそれはすごく有効に効く。

ポジショントークに対し、ファクトチェックだけで挑もうとすると、レトリカル操作だけ行っているタイプの記事に対し何もできなくなって行き詰まる。間違ったことを書いているわけではなく、誰もがやるように自説を優位に導いている文章に対し、警告を発するのは、それこそ言論の自由に反すると言われかねない。

しかし、ファクトチェックの挫折は「結局どの意見もポジショントーク」という価値観を導きかねない。どんなひどい説でも誰かはひっかかる。だから、なんでも言っておいた方がいい、もしくは事実や真実はどうでもよく、そもそも論証や証明なんていう手続き自体が詐欺だという反知性主義にまで至りうる。

ちなみに、ほぼ今書いたとおりのことが『我が闘争』に書いてある。ヒトラー自身の主張では、彼をそうした態度に駆り立てた背景には、自らが参戦した第一次世界大戦で、後方の政治家たちが議論と駆け引きに明け暮れ、前線の無駄な犠牲を強いたことへの義憤がある。

spotlight.soy

事は陰謀論に限らない。メディアに積極的に登場し、根拠のないことを喋り、いちいちファクトチェックをすることのない「一般の人」に特定の印象を植え付けるという活動をしている人は多く存在する。そこで彼らが人々に与えているのは「印象」であり「感情」であるから、その話に根拠がある必要はない(実は、まったく根拠がないというわけではないというところが厄介で、ある程度根拠のある話を別の文脈で使ったり、その根拠の別の側面を意図的に言い落としたりして、「嘘ではない」感じを出す)。彼らの存在意義はまさに《「結局どの意見もポジショントーク」という価値観を導》くことで、それによって、「お前の言っていることは偏っている」という批判に対して、「お前の言っていることと同じくらいには偏っているだろう」と答えることができるようになる。「原理的にはどのような根拠も疑い得る」ということと、「根拠の信憑性・蓋然性の度合いには違いがある」ということは別のことであるにも関わらず、けっきょく「どちらの根拠も絶対ではない」として適切さの度合いは考慮されなくなり、与えられた「印象」や「感情」や、それによって生まれた「バイアス」が批判的に再検討されることがなくなり、そのまま定着される。極端に言えば、100のうちに3つくらい本当のことを言う人と、100のうちに3つくらい間違える人とが、同等であるかのような効果を持ってしまう。そうなると、人の感情を動かせるのなら《どんなひどい説でも》《なんでも言っておいた方がいい》ということになる。

そしてこのような、ネットワークビジネス的に他人を利用しようとする「我が闘争」的、デマゴーグ的な言説もまた言論の自由に含まれ、それを規制する事はできない。そもそも、本気で信じて布教しているのか、ビジネス陰謀論(ビジネス保守)的に振る舞っているのかを外から区別することはできない(いや、区別はできるが、それを証明できない)。社会的な影響を考えず、自分の持ちうるもので自分の利益を最大化するのが正解であるならば、ビジネス陰謀論的な振る舞いは正しいことになる。人類は、ヒトラーナチスを倒すことはできたが、「我が闘争」的手法を破ることはまだできていない。

そしてこの「我が闘争」的手法を破る期待をかけられるものまた、テクノロジーと制度設計ではないかと思われる。この点について西川アサキは「分散化ソクラテス」という手法を提案している。

spotlight.soy