●議論が成立するのは、とても稀で幸運なことだ。
交渉や折衝は、相入れない者同士が互いに受け入れうる妥協点を見つけるためにすることだから「結論」が必要だが、議論は、異なる意見が異なるままで終わっても別に良くて、それによって互いに認識が深まったり、広がったり、新たな気づきがあったり、自説の弱点が見つかったりすれば、それで充分に意味がある。また、議論は争いではないので、議論の結果、異なる意見を持っていたAさんがBさんに説得されたからといって、Aさんが負けた(Bさんが勝った)ということではない。
(逆に、ディベートは勝ち負けを争うゲームであり、本来の自分の考えと真逆の主張でも相手を論破できればいいわけだから、主張の「内容」は恣意的であり、どうでもいいことになる。また、ディベートはオーディエンスに向かってするものだが、議論は対話の相手に対して行うものだ。)
議論を成立させるには、意見の異なる相手への友好的な感情(少なくとも友好的な態度)と敬意が必要であり、それがなければ、どんなに「正しい」ことを言おうが、論理的に整合的であろうが、意見の異なる相手とのやり取りは罵り合いと変わらなくなる。
そこから先は、議論とは異質な「政治的闘争」の領域となる。政治的闘争は、相容れない他者との力の奪い合い(力の配分の仕切り直しへの要求)であり、そこに必要なのは論理というよりも力である。例えば、議論において「知」や「論理」は真理へと至るためのものだが、政治的な領域でそれらは「力」として利用するためのものになる(否定的なことを言っているのではなく「女性が知を得ることでフェミニズムが社会の中で力を持つようになる」というようなことだ)。
政治的言説は、(それが正しいということより)それが「広く受け入れられる」ことで「力」を持つという点が重要になる。
(「言論の力」もまた力であり、それが及ぼす他者への作用・効果が問題となる。もちろん、正当な手続きを経た力の行使と、不当な行使とを一緒くたにするべきではないが、力が力であることは変わらない。エビデンスと論理的整合性を兼ね備えた言論で人を納得させることと、デマや切り取りによる印象操作でミスリードを導くこととは全く異なるとしても、そこで行使されるのが「人を納得させる力」であることは変わらない。)
政治的領域は「力」の領域であり、「ガンダム」の領域だ。「ガンダム」とは、諸々の立場の異なる力が交錯しぶつかり合う場であり、政治=暴力の不可避性が繰り返し描かれる。人が政治的(=暴力的)でないことは非常に困難で、政治的(=暴力的)度合いが低くても存在できる人はたまたま幸運な位置にいるに過ぎない。
しかしだからこそ「議論」は貴重である。政治的・闘争的であるしかない世界において、議論を可能にするためには「政治」を一時的にであれ、宙吊りにし、棚上げする必要がある。ゆえに、議論は(少なくとも直接的には)政治的には無力であり、無力でなければ議論ではないとさえ言えるだろう。これは、交渉や折衝が、特定の政治的状況下で要請され、行われるということと対比的である。議論では、立場が固定されていてはダメなので、一時的であれ、ソクラテス的な、ポジションを持たないというポジションが要請される。
(しかし、特定の政治性を常に相対化する非政治的なソクラテスは、政治的に殺されることになる。「議論」という非政治的なポジションは、政治的な足場(信条)を根底から瓦解させる可能性があるので、政治的にまったく安全ではない。むしろ、あからさまに政治的であるよりもリスクが高い。)