2022/12/06

●最近、デマゴーグの言葉がとても気になっている。例えば、「AIはそんなにすごくない」と言うと喜ぶ層(強い人間主義者)は一定数いる。そういう人に向けて、AIのイマイチなところだけ集めて、AIはまだまだ大したことはないという記事を書くことはできる。そのような記事には確実に需要がある(喜ぶ人がいる)だろう。そして、その記事には嘘は一切書いていないとする。さらに、そういう記事は「専門家」が、その権威性の元で書く。

しかし、仮に、八割すごくて、残りの二割にイマイチなところがあるという時に、二割のイマイチのところだけ選び出して、あたかも一事が万事であるかのように印象付けるのだとしたら、それがフェアである(正確である)と言えるだろうか。だが専門家には、意識的に、政治的な意図をもって、そのようなことをすることができるし、専門家がそれをやる場合、非専門家が見破ることは難しい。嘘ではない、間違いもない、ということが、本当のことだとは限らない。

(AIの力を過信するべきではないが、同時に、人間の力を過信すべきでもないと、ぼくは思う。AIが本当に人間を超えることができるかどうかはわからないと思うが、かといって、「AIなんかに人間が超えられるはずはない」というバイアスをあらかじめ持つべきではないと思う。)

これは一つの例だが、一定の需要があるところに向けて、「嘘はついていない」が結果として「嘘と同等の効果を持つもの」を供給して利益を得ることができる。一定以上の情報格差があれば、思想や政治的な立場の如何に関わらず、これを行うことができる。

専門家に比べて、官僚に比べて、政治家に比べて、識者に比べて、我々は常に情報が少ない。故に彼らは、自分のもっている情報の中から、自分の主張、あるいは、世論を誘導したい方向に都合のいいものだけを取り出して、論を組み立てることができる。そして基本的に、情報が足りていない我々には、そのバイアスを察知することができない。

そして、そのようなデマゴーグが活躍できるのは、我々自身が、あらかじめ思想的バイアスを持ってしまっているので、自分の思想的バイアスに都合のいい情報だけを取り込んでしまいがちだからなのだ。

●これはまた別の話だが、「賛否両論ある」という言葉を意識的に誤用すると言う場面を見かけることがある。賛否両論あるとは、賛否の割合が五分五分か、せいぜい四部六部くらいに割れている時に使う言葉だ。賛否の割合が、一部九部だとしても、確かに賛否の両論はあるのだが、それは「賛否両論ある」とは言わない(大勢が正しいとは限らないとしても、少なくとも大勢は決まっている)。しかしそのような時にも、「賛否両論ある」と言い切ってしまえば、実際は大勢が決まっているのに、あたかも五分五分で、どっちもどっちであるかのような印象を持たせることができる。そして、両論をどちらも等しく取り上げることがフェアであるかのような錯覚を作り出すことができる。だが、Aという主張に対して反対が九割で賛成が一割であるときに「両論併記」することは、賛成に対して中立的ではない肩入れをしていることと同じになる。

(これは、哲学的な思考実験の次元の話ではなく、集団的な意思決定時の論争という次元での話だ。「人を殺しても良い/悪い」という両論は、哲学的議論では同等に扱えるとしても、法律を制定するための議論において同等に扱うことはできないだろう。)

(少数意見を聞くことは勿論重要だが、少数意見は少数者の意見として重要なのであり、それをあたかも主流の意見の一つであるかのように見せかけることは、単に嘘である。)

(前にも似たようなことを書いたが、十のうちに一つくらい間違える人と、十のうちに一つくらいは本当のことを言う人を、「人は誰でも間違えることがある」という言い方をすると、90点と10点との違いが、どっちもどっちであるかのような印象を作り出すことができてしまう。)

●極端な少数意見が、あたかも賛否両論の一項を担うかのように印象付けられると、たとえそれを支持しないとしても、心は、極端な意見に対する「ショック」から、極端さへの「慣れ」のようなものへと移行していくだろう。そしておそらく、(それに同意していないとしても)極端な意見への「慣れ」は、「常識」というものを徐々に蝕んで破壊していく。「常識の相対化」と「常識の破壊(崩壊)」は、どちらも「常識を疑う」という態度を導くが、両者はかなり違うだろう。常識が崩壊した世界では、デマゴーグが活躍する余地が大きく広がるだろう。

(常識を相対化するためには常識が成り立っている必要がある、などというクソつまらないことを、まさか自分が書かなければならない日がやってくるとは二十年前には思いもしなかった。)

●因果性や論理性にこだわりすぎると、逆にデマゴーグに付け込まれやすいと思われる。陰謀論は因果を明確に説明するが、常識は曖昧にしか因果を示せない。「常識的な態度」の成立には、ふわっとした因果的曖昧さ(因果的不透明性)への耐性を必要とし、因果性よりも蓋然性を重要視する姿勢が必要となる。わからないことを、「わからないこと」として、わからないままで取り扱うことができなければならない。常識は、ルールのようには書き出すことのできない空気のような感覚(コモンセンス)であり、万能ではなく、過度な抑圧や、判断におけるバイアス、少数者への偏見や差別として機能してしまうことも(とてもしばしば)ある。だから常識は、常に疑われ、柔軟に更新され続けなければならないが(つまり、常に相対化されなければならないが)、そうだとしても、壊れてしまうとさらにひどいことになるので、壊れないように慎重に扱う必要もある。それこそ、凡庸で常識的なクソつまらない話だが。