2021-08-22

●昨日の日記に書いたこととも関係するが、西川アサキさんの「分散化ソクラテス」という問題意識はとても重要なことだと思う。政治的な言説に対する根本的な不信は、その多くが意図的にバイアスがかけられたポジショントークでしかないというところからくる。

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《結局の所、ソクラテスの問答法で達成されるのは、バイアスの解除だ。バイアスの解除、つまり「自分の共同体や伝統・利益・価値・立場からくるおかしな推論をやめること」を続ける態度を「普遍的立場」と呼んでおこう。

普遍的立場の反対が、ポジショントークフェイクニュースといった現在ネット上を埋め尽くす勢いの意見だ。それらは、知ってか知らずか、自分の利益を守るもしくは権力を拡大するために、バイアスをできるだけ拡散し強化しようとする活動で、ちょうど問答法によるバイアス解除と逆となる。》

ポジショントークにせよ、フェイクニュースにせよ、あからさまに事実に反することが書いてあれば、ファクトチェックで原理的には回避できる。だから、ファクトチェックをうまく自動化する仕組みを作ればいいようにみえる。そして、フェイクレベルやポジション偏向のレベルをサイトやツィートに常に表示するUIをプラットフォームが用意する。実際すでにそうした仕組みは存在するし、今後も発展し続けるはずだ。

だが、この仕組には二つ問題がある。一つは、ポジショントークフェイクニュースは、「虚偽とは限らない」ということだ。むしろ手の混んだポジショントークでは、事実に反することをそのまま書くことは少ない。

解釈の割れそうな事柄に対し自分の支持する立場の扱いを大きくする、反対の立場を意図的に消去する、反対の立場を述べた後突如自説に対するポジティブな意見をつけて終わる、など読み手の印象を操作するレトリカルな操作を行う方法は様々だ。》

ポジショントークに対し、ファクトチェックだけで挑もうとすると、レトリカル操作だけ行っているタイプの記事に対し何もできなくなって行き詰まる。間違ったことを書いているわけではなく、誰もがやるように自説を優位に導いている文章に対し、警告を発するのは、それこそ言論の自由に反すると言われかねない。

しかし、ファクトチェックの挫折は「結局どの意見もポジショントーク」という価値観を導きかねない。どんなひどい説でも誰かはひっかかる。だから、なんでも言っておいた方がいい、もしくは事実や真実はどうでもよく、そもそも論証や証明なんていう手続き自体が詐欺だという反知性主義にまで至りうる。》

《ちなみに、ほぼ今書いたとおりのことが『我が闘争』に書いてある。ヒトラー自身の主張では、彼をそうした態度に駆り立てた背景には、自らが参戦した第一次世界大戦で、後方の政治家たちが議論と駆け引きに明け暮れ、前線の無駄な犠牲を強いたことへの義憤がある。》

《また似たような事例として、コロナウィルスのワクチンに対するものがある。極端な例では「ビル・ゲイツが人体を遠隔操作するウィルスを散布するために作った」というような多数のフェイクニュースがある。様々なバイアスやフェイクニュースに対し、それが科学的に根拠のないものだ、という解説はできる。ただ、その解説自体が陰謀だ、という反論には効果がない。

これが、もう一つのフェイクニュース対策の課題、「レフリー(中立者)の信頼不能性」とでもいうべきものだ。

つまり、ある特定プラットフォームによるバイアス解除は、たとえ主催者の意図が完全な善意で事実に即していたとしても、(他人から見れば)検証行為それ自体が「プラットフォーム運営者のポジショントーク」である可能性を原理的に消せない。》

《問題となっているのは「実際に嘘をつくこと」ではなく「原理的に嘘をつくことができること」で、陰謀論者の攻撃はそこをつく。コロナのワクチンがDNAを意図的に改変するという主張に対し、その可能性は極めて少ない、といくら大手メディアが報道しても無駄だ。なぜなら、その報道が、「フェイクでありうる、特定の少数者が操作可能な情報でること」自体は事実だからだ。陰謀論者が涼しい顔で「自分は陰謀論者だと思われているし、大手メディアの意見全てと矛盾している」と認めた上で、自説を延々と反復できるのはそのせいだ。》

《ゆえに、レトリック検証という作業は、原理的に分散組織でしか実行できない。なぜなら、前回触れた「レフリーの信頼不能性」を克服することが中央集権的組織ではできないからだ。換言すれば、「「特定の誰かの意思によって変更できないこと」が知られていること」を、そもそも必要としている。

これは、最初期のブロックチェーンであるビットコインが、「金融政策方針を誰か(恣意的に・善意で)が決める」ということに対し、「そのようなことができない仕組み」として提案された時に、すでに潜在的していた「分散組織にしかできないこと」の本質だ。

レトリック検証の場合、分散化による正当性保証の対象が「通貨発行量の適切さ」から「情報にかかったバイアスの無さ」まで抽象化している。が、「ある特定の権威に委託することが、そもそも原理的に正当と言えそうにない」ことがらの範囲が新たに発見されていっているだけだとも言える。

後で触れるように、分散組織は人工物でありながら、一種の新しい「自然」として振る舞うことができる。》