●まだ発売前なのであまり詳しく書くことは差し控えるけど(引用も最小限にする)、「早稲田文学」フィクション特集の「ポスト真実の時代、現実とフィクションの人類学」(奥野克巳)が面白い。
たとえば、プナンの共同体でおこなわれているアロペアレンティングの制度や、他人に惜しみなく物を与える「よい心がけ」は、社会的、文化的プロトコルとしてとても優れていて(我々の社会より優れていて)、そこに住む人々を幸せにするであろうと思われる。
《しかし、プナンは生まれながらにして、惜しみなくものを分け与える寛大な心を持っているかと言うと、まったくそうではない。ある時、私が幼い女の子に飴玉をいくつか与えると、彼女はそれを独り占めしようとした。(…)その様子を見た母親が、周囲の子どもたちにも飴玉を分け与えるようにやさしく諭した。》
《プナン語には、感謝を示す「ありがとう」にあたる言葉はない。それに近いのは、「よい心がけ」という意味の、ジアン・クネップという言い回しである。その語句の発話は、周囲の人物に惜しみなくものを分け与える人物の心がけのよさを讃えることにある。》
上の引用は、「惜しみない贈与」が共同体に書き込まれた社会的、文化的なプロトコル(共同体が個に対して強いるもの)であることを示す。後の引用は、受ける側が贈与による(返礼を強要する)「借り」の感情を生まないための配慮であるように感じる。「ありがとう」と言ってしまうと贈与してくれた人に借りを作ってしまう感じだけど、「よい心がけ」への賞賛は二者の間に貸し/借りの関係を生まず、「借り」があるとしたら、共有される価値としての「よい心がけ」そのものへの借りという感じになる。贈与してくれた個ではなく、「よい心がけ」の方に借りがあるから、自分もまた「よい心がけ」を実行しようとする。
●ただ、ここで書かれている伝統文化の「よい心がけ」(社会的、文化的プロトコル)は、わるい心がけ(それはつまり、富の蓄積と一元化という習慣だろう)をもった集団からの攻撃に耐えることができない。物に執着せず、必要な時に必要な人に物を惜しげもなく与える社会にすむ人は幸福だけど、人々から財を奪って一元化し、さらにそれを蓄積する習慣をもつ集団は、その一元的に蓄積した財を使って、例えば治水工事をして生産効率を上げ、軍を専門的な組織とし、武器を高度化することができるので、前者は後者との戦いに勝つことができず、後者に奴隷的に従属するか、後者に倣って富を蓄積、一元化して対抗するしかなくなる。幸せなプロトコルは、中枢化(富の蓄積と一元化)したわるい奴らに潰される。
そのような「富の蓄積と一元化」の側の勝利の際限の無い繰り返しが、国家を生み、現代の世界をつくり、資本主義を発展させ、現代の科学技術を可能にした。しかし逆説的に、その果てに登場した今日の情報技術によって、「よい心がけ」を社会的、文化的プロトコルとする小さな集団が、富の蓄積と一元化(中枢化)を原理とする大きな中枢的集団からの攻撃に対して、自らを防衛することが可能になるプロトコルが書けるかも、という可能性が(ちょっとだけ)でてきたのだと思う。21世紀の情報技術が現代を神話の時代にする(かもしれない)、ということの意味はそこにこそある。
(わるい心がけの人たちの集団が負けるわけではなく、そこからの部分的な切断---繋がっていると同時に、その影響を限定的にする---小さな共同性の持続が可能かもしれないということ。中枢に取り込まれず、潰されもせず、自らが中枢化することもなく、持続することが可能な分散的な共同性の(部分的)可能性。プナンの共同体が「よい心がけ」を持続できているのは、地理的な条件などにより、わるい奴らから遠く離れて存在できているからだろう。)
とはいえ、放っておけばかならず富の蓄積と一元化(中枢化)の動きが出てくる。分散組織であったはずのインターネットにグーグルが現われ、インターネットが生む価値のほとんどを一人でかっさらっていくようになったように。マストドンのなかの人が瞬く間にドワンゴに吸収されたように。中枢化の抑圧はきわめて強力であり(下手なことをするとマジで殺される)、それに抗して分散的でありつづけられるためには、まだまだいろんなことが、いろんな人によって、考え出され、発明されなくてはならない。
(このことと、わたしはなぜわたし一人なのか---わたしがなぜ、二人いたり三人いたりしないのか---という問題はつながっている。)