●『フィロソフィア・ヤポ二カ』の第二部まで読んだので、今日はちょっと休んで、清水高志さんによる読書会の資料をじっくり読んで、『来たるべき思想史』の西田幾多郎について書かれた章を再読し(『フィロソフィア…』の第二部だけだと、中沢新一が捉え、再構成しようとしている西田哲学のかたちがどういうものなのか、今一つはっきりしないところがあるので)、買ってから最初の方をちらっと読んだだけで放ってあった『日本の大転換』を読んだ。
●『日本の大転換』にはけっこう強い反感も出ているみたいなので、どんなに挑発的なことが書かれているのかと思ったら、全然そんなことはなかった。
●多くの人は、原発の構造とユダヤ教を起源とする一神教の構造が形式的に同値だと書かれている点に引っかかるのだろうし、まあ、いきなりそんなことを言われればそれは怒る人もいるだろうとは思う。でも、ここで中沢新一が言いたいのは反ユダヤ主義とかではなく脱近代(非モダン)というようなことで、でもこの本は大衆的な「パンフレット」として書かれているから、そこで分かり易く一神教と仏教みたいな話が(十分な説明なしで)いきなりでできて、しかし分かり易過ぎるがゆえに、そんなに唐突だと怒る人もいるよね、という話になる。でも、とりあえずその点を括弧にいれて読めば、言っていることはきわめて穏当に思える。
大ざっぱに要約すれば以下のような感じだろうか。
(1)原発はいわば、地球の生態圏の外にある太陽がそのまま(無媒介に)生態圏の内部に持ち込まれてしまったようなもので、今までのエネルギーとは根本的にあり方が違うとても危険なものだ。にもかかわらず、小さな太陽である炉のなかで起きていることとそれを電力に変換することとを媒介する技術の点できわめて脆弱かつ原始的であり、危険な不均衡状態にある。この点は今回の事故によってはっきり露呈された。
(2)よって、(原子炉という)小型の太陽を生態圏に持ちこむのではなく(「太陽」を資本主義のシステムに内化してシステムを閉じるのではなく)、地球上のすべての生物がそれに頼っている「太陽による贈与」を我々のエネルギーの基礎としなければならない(システムを太陽の「贈与」に向けて開かなければならない)。太陽エネルギーを「直接的」に持ち込むのではなく、「媒介」を通じて用いなければならない。しかし、従来の石炭や石油といった化石燃料は、とても長い時間をかけて生物によって蓄積(媒介)された太陽エネルギーであり、それはいずれ枯渇する。よって、今、降り注いでいる太陽のエネルギーを短時間で(化石燃料の生成のような長い時間を経るものではなく出来るだけ短い時間差で)使用可能なエネルギーへと効率よく変換する(媒介する)技術こそが、今後のエネルギーの革命へとつながるだろう(モデルとして、植物の光合成が挙げられる)。今までの人類のエネルギー革命のすべてを組み込みながら、それを「否定的に乗り越えてゆく」という弁証法的な記述もみられる。
(3)しかしそれでは、石油や原子力のように、いっぺんに大量のエネルギーを作り出すことは出来ない。よって、できるだけ多様な局面(それぞれの環境)に合わせた多様な技術が(それがマイナーなものであっても)柔軟な形で開発され連携される必要がある。太陽の贈与をエネルギーへと変換する、多くの技術や、ある技術と別の技術とを柔軟に媒介する技術やシステムこそが必要である。つまり、一つの偉大で革新的な技術(や思想)によってすべてが塗り替えられてうまくゆくということはもはやあり得なくて、様々なローカルな場面、ローカルな次元で生まれる具体的な技術(の創造)が複雑に連携することによってしか、それは実現しないであろう(このような状態が「仏教」的あるいは「リムランド」的とされる)。
(4)だが、そのような媒介的な技術や技術同士の関連のあり様は、現在のわれわれを規定している近代的なシステム・思考・技術(例えばグローバルな資本主義)とは相容れない(多様な個の連携であるネットワークとグローバルな基準の拡張とは相容れない)。よって、上記のようなエネルギー体制への転換は、それだけにとどまらず、我々の社会や思想や文化や経済のあり様を大きく変えてゆくことと連携して行われなければ、成功しないだろう。例えば経済も、「贈与」ということを基本に根本的に考え直す必要がある(そのためのモデルとして第一次産業が挙げられ、そのような素養がもともと日本文化にはあるとされる)。
●なんか普通だよね、とか、それはその通りかもしれないけど、夢みたいな話で具体的なイメージに乏しいんじゃないの、という反応はあり得るとは思うけど(具体的なことは、これからみんなで考えていきましょうと書いてある)、そんなに反発を引き起こすようなヤバイことは書かれていないと思うのだが。
●実はここに書かれていることは『フィロソフィア・ヤポ二カ』とも深く関連しているのだと思う。でも、出来るだけ分かり易く、単純化して書かれているから逆に、中沢新一が言おうとしていることの背後にある文脈が見えない人には、かえって分かりにくかったり、唐突さや強引さ(胡散臭さ)として感じられたりするだろうと思われるところも多々あって(一神教の話とかもそうだけど)、そのことも妙な反発を(あるいは逆に妙な盲信も)ひき起こす原因でもある気がする。中沢新一のことを気に入らないと思う人は、その独自の「分かり易さ」が社会のなかでどのように機能してしまうのかについてもうちょっとセンシティブになれよ、ということを言いたいのかもしれないとは思う。
●この本を読んで(ポジティブな方向ででも、ネガティブな方向ででも)引っ掛かりを感じた人には、ラトゥールの『虚構の「近代」』(原題を直訳すると「かつて私たちが近代人であったことは一度もない」)を読んでみることをぜひお勧めしたい。この本を読むと、中沢新一が何を言いたいのかが(それに同意するかしないかは別としても)、ずいぶん理解しやすくなるんじゃないかと思う(「対称性人類学」という言葉もラトゥールからきている)。