●本棚の奥から引っ張り出してきた『野ウサギの走り』をパラパラみていて、「出エジプト」というインタビュー(本当にインタビューなのか、そういう体裁で書かれたテキストなのか分からないけど)をみつけた。この時、中沢新一は、現在「流動的な知性」と呼んでいるものの可能性をユダヤ教のなかに見出しているようにみえる。
ユダヤ教の「ファロス中心主義」という批判も、もっとていねいに吟味してみる必要があるでしょう。なぜなら、父なる神をいただく彼らの宗教は、父性なるものについても、きわめてユニークな理解をしめしてきたからです。父性は、人間を母体との一体性、大地との一体性から切り裂いて、象徴能力の領域に導き入れる。しかし、ユダヤ人はその父性を自分のなかに受け入れたとたん、またもや散-種されてしまうのです。ここで、ふたたび「砂」のイメージが浮かび上がってきます。砂はサラサラとして、けっしてつぶとつぶがくっついてしまうことはありません。砂はそれぞれが自分の顔(ヴィザージュ)をもち、こういう言い方ができるとすれば、父性を内在化しているのです。けれどだからといって、流れ動く砂漠の砂は、けっして自分からはバベルの高塔を、ファロスの巨塔をうちたてたりはしないものです。ここに、ユダヤ教のとらえてきた(とりわけそれはラビ的ユダヤ教ではなく、カバラー的ユダヤ教のなかで進められた考えですが)父性の理解の興味深いところがあります。父性は存在に顔貌をあたえ、砂つぶとしてこの世に生み出すが、その砂つぶはいつも散種されているために、ファロスの中心にたどりつくことがないのです。》
●父性によって大地から引き離されることで象徴的な思考が可能になり、しかしもう一方の強い重力である父性も、砂粒のように砕けることで、決して中心を形作ることない。そのようなところに流動的な知性が生まれる、と。そしてそのような事態(一であり多であるもの)は、自然発生的に成立したどんな共同体の「法」とも異なる、一神教の神から与えられた超越的な「法」によって可能になる。
《新しくつくられようとしている共同体がけっして自然に形成されてくるものではないように、新しい来たるべき共同体の「法」も、けっして自然成長的であってはならない。そのことのメタファーが、神から超越的に与えられる「法」というかたちで表現されたのです。しかし、彼らの「法」は、地球上にあったどんな「法」ともちがったものでした。ユダヤ人は、どこへ暮らすようになっても、その国家の法にしたがうことがなかった。その点では、ユダヤ人は、あらゆる法を無視して生きつづけるアナーキーな民と言えるでしょう。だが、彼らは彼らの「律法」を生きている。ようするにユダヤ人にとっての「法」は「法」でありながら、ふつうの意味での「法」ではなかったのです。彼らの「法」は、この地上にあるどんな国家の法となることもないし、なることもできない。その異質性を表現するために、散布の民は、うちくだかれた十戒の石という物語をよりどころにしました。》
●これはある意味とても分かり易くて、現代思想の典型的な形の一つとしての「砂漠の思想」がコンパクトに要約されているように思う。一方に、共同体から引きはがされるほどの強い超越的中心化の力=法(一)があり、しかしもう一方で、それはその厳格さによって国家や共同性になじまず、一つには纏まらずに絶えず砂粒のように崩れて散ってゆく(多)、と。そしてその(一粒一粒に顔貌が与えられた、多であり一でもある単独者としての)砂粒たちの流動的で脱中心的な運動のつくりだす「図柄(星座とか…)」として、来たるべき新しい共同体が夢想される。
しかし現在の中沢新一はこの地点から離れ、このような「超越的な法」(「神」との直接的な関係・契約)は、一方でたしかに「散種」という流動性を可能にしたが、他方で、「対称性の思考」がもっていた「世界とのつながり(離れつつも接する繋がり)」を切断することになってしまったのだと考えるようになったのではないか。
だからおそらく、「対称性の思考」も「超越性の思考」も、どちらも流動的な知性(大地からの離脱)によって可能になるという意味で同類なのだ。対称的な関係として(離れつつ繋がるかたちで)自然と切断されるのか、神との一対一の関係において(神を唯一の媒介として)自然と切断されるのかの違い。あるいは、二人称からはじめて一人称と三人称が分離されるという世界観と、もともと一人称と三人称とが分離している世界でそれをどう繋げるのかという世界観の違い。だからこれは単純な「多」神教(想像界)と「一」神教(象徴界)の対立という話ではないはず(自然-母性への回帰とかではさらにない)。どちらも同じように「一」と「多」を同時にその内側に含んでいるが、その「一」と「多」との関係のさせ方(媒介のあり様)が違うということなのだと思う。
「対称性の思考」は「種の論理」ではあるだろうが、単純な共同体への回帰でないだろう。『熊から王へ』では、《南米大陸の南の突端から出発して、北米大陸をぐんぐん北上し、ベーリング海峡を越えて、東南アジアにつらな》る環太平洋地帯に広く共通して見出される、《国家をつくりだそうとしなかった人々》の「対称性の思考」のあり様を、それらの地域に分布する神話を分析することによって抽出しようとしていた。その「散種」の範囲は広大だ。通常、「神話」は国家や国家の法を正当化するための根拠の物語=歴史だという先入観があるけど(「神話的暴力」とか)、それは国家成立後に国家に取り込まれた神話であって、神話の生成、伝播、書き換えは、国家とはまったく別の原理や運動性によっていることが、『熊から王へ』では、神話の広大な分布と共に示される。神話は、そのつど、その時、その場の状況に適した形で(手近な素材を利用して)柔軟に書き直され、しかしその無数の書き直しという行為の内に、常に(ある構造として)「対称性の思考」が貫かれている、と。つまりここでは、国家に内在しつつも、その境を越えて散種された非国家的な「対称性の思考」をもつ人々が広く存在した証として、「神話」が取り上げられる。それは、強い超越性(による厳格な法)抜きでも、神話自身が自らを顕示するようにして世界中に散種される。
●おそらくここで、中沢新一が一方で脳科学に準拠する理由も見えてくる気がする。つまり、流動的な知性(象徴的な思考)が、強い超越性によってではなく、脳の進化によってもたらされたのだとすれば、「対称性の思考」の方が「超越的な思考」より、より根源的(普遍的)であり、人の社会が「強い超越性」を回避することも充分に可能だと示せるからではないか。
●ただ、気になるのは、『フィロソフィア・ヤポ二カ』で、「種」が、「個」を否定的な媒介とすることで「類」に至るとされた、その「否定的な媒介」がここでは見いだされていないようにも感じられる。
●ところで柄谷行人もまた、ユダヤ預言者の特質性について次のように書いている。
預言者は、呪術師や占い師とは違って、民族にとって、あるいは彼個人にとっても望ましくない敗北や苦難を神の言葉として告げたわけです。このことは、宗教から魔術が廃棄されるためには、神と人との互酬的な関係、つまり対称的な関係が否定されねばならないということを意味します。この結果、ユダヤ教徒は、数えきれないほどの敗北と苦難を与えられたにもかかわらず、神を捨てなかった。》(『世界共和国へ』)
このような非対称的(絶対的)な「神」によって、国家(再分配・商品交換)と共同体(互酬)を否定する「普遍宗教」が成立した、と。立ち位置やニュアンスが異なるとはいえ(ここでは対称性は大地-母との分離前の魔術などと同等の扱いである)、ここまではほぼ同じことを言っていると言える。しかし、柄谷行人はこっちの方(非対称的な神)の流動性に国家と資本を越えるものとしての「第四の交換形態」の可能性をみている。そして普遍宗教は、強大な国家の都市部においてのみ(つまり商品交換が成立して以降にはじめて)可能になったのだ、とする。《(…)それは、商品交換=市場経済の空間にしか出現しない。と同時に、それを否定するものです》、と。それはやはり、強い超越性によって、強い超越性を制するという感じになる(顔貌をもった砂粒-単独者)。これは、フロイトの、支配(攻撃)欲動が自己に向かうことで超自我が生まれ、倫理が可能になるという論理構成を想起させる。
共同体はそれ自身では決して国家になることはなく、共同体と共同体のあいだに支配-被支配という関係が成立することで国家となる。貨幣もまた、互酬性が支配する共同体のなかでは生まれることがなく、国家の内部においてはじめて商品交換が生まれる。しかし貨幣は、国家内だけでなく、他の国家との間でも交換可能なものでなければ流通しない。そして、そのようにして生まれた国家と資本のなかではじめて、自身(国家と資本)を否定的に乗り越えようとするなにものか(X)が創出される。柄谷行人はそのように書いている。それはあくまで歴史的な過程(段階)として描かれる。
●それに対し中沢新一はその「X」として、人類が「はじめから持っていたもの(はじめに与えられたもの=人類最古の哲学)」であるという「対称性の思考」を、いわばいきなりのように挙げる。そしてその根拠の一つが、脳の進化だということになる。そうなるとこれはもう、「歴史」としてあつかえる数千年というスパンを越え出て、(現生人類出現時からの)十数万年というスパンの時間が後方に一気に広がり、それによって「これが当たり前だ」「これは動かしがたい」と思っていることが一気に相対化される。それはなんというか、ポカーンとしてしまうような、すごく乱暴な(掟破りな)話にも思える。しかし、現代の科学の進歩は、こういう話を必ずしも胡散臭いと切って捨てるわけにはいかないところにまではきているのではないか(例えば「地震」の研究なども、歴史以前までが射程に入れられるようになってくる、それは「歴史」という概念を相対化することにもなる)。
勿論、「神話」が直接地層のなかから発掘されるわけではなく、それが採取されたのは近代になってからなので、その神話は新しいものだ。それらの神話と古い層との繋がりを示すものは、互いに交流がないはずの広い範囲の人々の間に、同様の「対称性の思考」を見出せる神話が、人類の移動の経路に沿って分布しているからでしかない。さらに、十数万年前の人類も現在の人類も「脳」の組成はまったく同じなのだから、「思考のあり様」も同様であったはずだという、あやういし検証できない仮説でしかない。とはいえ、考古学や脳科学など科学の「最新」の成果を媒介とすることで、人類学的に人類「最古」の哲学が見いだされるということは、一種の自己否定的な(否定を媒介としての)発展の過程とも言えるのではないか。それは、最新の科学によってはじめて照射可能となった(創造された、とさえ言える)「過去(はじまり)=根拠」であって、単純な過去回帰(あるいは近代的な構成物を古いものだとする「転倒」)ではないと言える。精神分析によってはじめて見いだされた「(別の)幼年時代」のようなものではないか。「最新」の科学やテクノロジーによって、「最古」の哲学が、後方にではなく、前方に投げ出されるようにして(可能性として)見いだされているのではないか。