●以下、メモ。
レヴィ=ストロースは、科学は構造(均衡)から出発して出来事(不均衡)を生み、神話的思考は出来事から出発して構造を生むとする。同様の関係が、ゲームと儀礼の間にも言えるという。ゲームは、最初に均衡状態(同一のルール、同一の条件)があり、ゲームがプレイされることで不均衡状態(勝ち負け)へ至る。儀礼は、最初に不均衡状態(例えば、戦争による生者と死者の分離)があり、儀礼がプレイ(演技)されることで均衡状態(例えば、死者こそが実は生者なのだと死者に思い込ませることで死者からの復讐を防ぐ)が生まれる。神話的思考は常に対称性を取り戻そうとする方向にはたらく。(『野生の思考』より)
●北米のアラパポ族では、女性の生理の周期性を、生理(自然)+周期性(文化)だと解釈し、自然の定めとは異なる、男性によって定められた文化を受け入れることで生理の周期性が保たれるのだと解釈する(文化を受け入れなければ生理の周期は無秩序になる、と)。それは、生理の周期性を保つことが自然と文化のバランスを保つ上で重要だということであり、生理に関する様々なタブーが課せられる(生理が文化的に管理される)。生理が自然+文化であるとすれば、社会のなかにいてタブーを課せられる女性は「女+男」としての女性ということになる。ここで対称性の原理が働き、そうであるならば男性もまた「男+女」としての男性でなければならなくなる。実際男性は、自身を文化(周期性)の側にいるとしながら身体内に周期性をもつものを宿していない。だから、周期性をもつ儀礼によって、周期的に血を流すことで象徴的に女性化することが求められる。「太陽の踊り」において男性は、木釘を胸に何本も刺し、それにヒモをつけて高い木の先に結びつけたり、そこから牛の頭蓋骨をぶら下げたりして、その状態で肉が裂け、血が流れるまで激しく踊ることが求められる(ここには、「月/太陽」「下半身/上半身」といった対照関係もある)。
(『神話論理の思想』出口顯、第二章の一部の要約)
●以上のように考えるならば、例えば「両性具有への欲望」が、プラトン的な、かつてあった完全な状態への回帰の欲望ではなく、不均衡状態によって要請され、創造(想像)された、象徴的な均衡状態として考えられる。つまり、心のなかに刻まれたものではなく、社会的関係と文化的システムに要請されたものということになる。
儀礼における痛みと快楽、苦痛と陶酔のダイナミックな混合は、このような高度にシステマティックな対称的思考によって導かれる。
●対称性を保とうとするということは、同じ状態になる、似た者になる、ということではなくて、「+−」が「−+」と均衡するというように、反転的な関係をつくるということだろう。そして、実際問題として社会に「完全な均衡」が訪れることはないので、このような反転的な展開(対称性をつくろうとする動き)ははてしなくつづいてゆくことになり、神話はとりとめもなく展開する。とりとめのない展開をフィックスして「聖典」をつくろうとすると、そこで不均衡もフィックスされることになる、ということでいいのか?。