●ツイッタ―で丹生谷貴志さんがアールブリュットの「単調さ」について書いていることがとても興味深い。興味深いけど、ぼくはちょっと違う感じをもっている。この「違う感じ」について、丹生谷さんが書いたものの力を借りて少し考えてみたい。
●≪いわゆるアールブリュットを見ていると僕は眠くなる。端的に退屈する。そこに不気味さがあると言うとすればその画像の奇想やら異様さではなくその途方もない単調さなのだ。例えばダーガーが途方に暮れさせるとすれば個々の画像やビビアンガールズ・エピソードではなくその怪物的な単調さの分量なのだ≫
≪小学校生たちが四本足のニワトリを描いたことに教育評論家が「今の子供が自然と触れ合わない結果だ」と嘆いた。実際は子供たちだってニワトリが四本足ではないことは知っていた。先生に「二足歩行をするのは人間だけ」と教わった故にニワトリは二速歩行であってはならないと判断した結果だったのだ≫
≪子供たちの思考は彼らなりに論理的である。彼らの言動はもとより「子供らしい奇想の絵」と見えるものに於いても彼らなりに論理的であり、あまつさえ多くの場合、大人の思考と同じように「紋切り型」である。彼らの「奇妙な絵」が、並べてみれば互いにひどく似ているのを見れば分かる。≫
≪アールブリュットと呼ばれるものも子供の絵も、その本質を成すのは一種の論理性であり「単調さ」である。逆に言えば、それらの作品が興味深いとすればそれは「原始的エネルギーの表出」などではなくその単調さにおいてなのだ。それを集合的無意識と呼ぶか? とすれば集合的無意識の本質は単調さである≫
●ぼくは、この「単調さ」と「とりとめのなさ(単調さの分量)」こそが、「原始的エネルギーの表出」そのものなのではないかと思う。おそらく、アールブリュットの作品は、神話のように単調でとりとめがなく、そして論理的である、という意味で「原始的なエネルギーの表出」と言えるのではないか。だからその単調さ(論理性)は、教育の結果としての単調さ(何にしろ「習いたての人」が陥りがちな紋切り型)とは違うものではないかと思う。
●そして、アールブリュット的作品をユング的な集合的無意識の発露としてみるのではなく、レヴィ=ストロース的な「構造」の発露としてみるとすれば、その単調さ、とりとめのなさ、機械的反復性、論理性の意味が見えてくるのではないかと思う。レヴィ=ストロースにおける構造は、たんに文化的なコードというだけでなく、自然の側に予め用意されたもの(要するに、人類の頭のなかにもともとセットされているもの)でもあるという。
●ずっと昔、知的な障害をもった人の絵画教室を一度だけ手伝ったことがある。その時、あるダウン症の男性は、ドラゴンボールの多数のキャラクターを、キャンバスに数字を羅列するように規則的に何列も並べて、とても細かく丁寧に描いていた。しかも、二頭身のキャラクターも八頭身のキャラクターも、すべて四頭身くらいに正確に縮尺を統一させるように変形して、描いていた。そしてその配置や順番にも、変えてはいけない規則性があるようなのだった。「神話」の感触というのは、そういう感じなのではないかと、レヴィ=ストロース中沢新一を読むようになって思った。
●『神の発明』(中沢新一)の示す構図に従えば、対称性を重んじる神話に対し、超越性(宗教・神)は、そこから遺脱しようとする動きとしてある。だから、神話や来訪神(神話に近い超越性)は単調でとりとめのないものが好きであり、一方、超越性(宗教)や高神(唯一神に近い神)は、単調が嫌いだということになると思う(イコノクラスムは単調さの絶対的拒否なのではないか)。機械的に「有りもの」をどんどん構造的に変換して増殖させる(ブリコラージュとしての)神話と、構造そのものを超え出てそれを書き換えようとする超越性。われわれが、アールブリュットの作品や神話を単調だと感じ、その「単調さの分量(とりとめのなさ)」に空恐ろしさを感じるとしたら、それはわれわれが超越の側(超越の時代)にいるからではないだろうか。
●だから、この後で丹生谷貴志が、「単調さ」を「退屈さ」につなげていることは、適当でないようにぼくには思われる。単調さが神話的なものであるとすれば、退屈さは超越性によって可能になるものであるように思われるからだ。
つまり、吉田健一武田泰淳(退屈さ・超越性)と、ルーセルやレリス(単調さ・神話性)は基本的に違うのではないかと思う。
≪スヴェンセンの『退屈の小さな哲学』というさして鋭利とも思えない本がある。視点は結構。問題はこの著者は「退屈さの強度」について、あまりに・・・それこそ理解が単調過ぎるのだ。修道僧の間に第八の大罪として加えられていた「白昼の狂気」の問題、それは「単調さの狂気」への注視に端を発していた≫
≪例えば吉田健一の最晩年の『時間』『変化』は単調さの強度、退屈さの強度において書かれた最良の試みの例である。或いは武田泰淳の『富士』のような長篇、或いは『快楽』すらもまた?或いはさらにルーセルの新発見の幾つかの作品。やや性質を異にするがレリスの『幻のアフリカ』『ゲームの規則』等々≫
丹生谷貴志自身のテキストが繰り返し描き出しているような≪白昼の狂気≫は、超越的なもの側(対称性の外)にのみあるようにぼくには思われる。神話においては、単調さ=とりとめのなさは「狂気」にはつながらないのではないか。おそらくダーガーは白昼の狂気とは関係がない。
●ぼくはずっと、近代芸術に関心をもってきた。そして、近代芸術とは、この話の文脈からは、超越性の方へ大きく傾いたものだと言える。アールブリュットを「単調だ」と言えるとしたら、それは近代芸術の空間を基準としてみれば単調だ、ということだ(神話が、近代小説的な基準で読むと単調に感じられるように)。そして、近代芸術にはそのような単調さとは異質の「退屈さ」が開けている。この退屈さは、丹生谷さんが≪無人の可能性≫と書いていることにつながっていると思う(「大岡さん」は大岡昇平のこと)。
≪戦地で「綺麗な空だなあ」との大岡さんの呟きを聴いた同期生が「この人だけは無事に内地に帰したいな」と言ったのを大岡さんは決して忘れないと書いている。死の予感の中で美しく煌めく自然?大岡さんはたぶんそんなロマン主義者ではなかった。無人の可能性、その簡潔さによって簡潔になった世界への眼≫
●ここで言う「退屈さ」や「無人の可能性」は、おそらく、超越的なものが対称的なものを抑圧して世界を覆い尽くした先に(超越性の「破れ」のようなものとして)、はじめて見えてくるものであるように思う。だから、神話的単調さのなかに「退屈さ」を感じるとしたら、それはわれわれがすでに「退屈さ」を知ってしまっているからではないか。
●たとえば、グリーンバーグが晩年のポロックを理解できなかったのは、グリーンバーグが「超越的なもの」の方を向いたイメージしか見ていなかったからだと、ぼくは思う。対して、ポロックのなかには常に、超越的なもの(退屈さ)への志向と、神話的なもの(単調さ)への志向が両方あったのだと思う。
●とはいえ、神話的なもの(対称性)と、超越的なもの(対称性を逸脱しようとする傾向)は、どちらももともと人類にアタマにセットされているものなのだとすれば、神話の世界の住人もまた、たとえば大岡昇平が見たのと同じ「空」を見ているはずではある。
≪三島が最後に見た映画の一つはパゾリーニの『女王メディア』だった。死後それを知った大岡さんはわざわざ場末の(多分三鷹の)三本立て映画館にそれを見に出かけている。「郊外の空を見ながら、これを棄てて行かなくてもよかったのにと思った。すると不意に、首になる死を決意した者の重みが胸に来た」≫
●退屈なものと単調なものとが出会う場所がどこかにあるはずだとも思う。丹生谷さんが見ようとしているのはそういう場所なのかもしれない。