●昨日書いた『ぼくらは都市を愛していた』(神林長平)についての感想を、もうちょっと補足する。ネタバレあり。
●提出された問題と解答がズレているということについて。
この小説の中心にある弟と姉という二つの裏表世界の展開で問題にされているのは、一方は内的統覚の崩壊であり、もう一方は外的参照項の崩壊であり、それはどちらも、「わたしの内側」から見られた「世界のパースペクティブ」の崩壊(崩壊の気配)だと言える。パースペクティブの崩壊とはつまり一人称の崩壊とも言える。あるいは、「一人称/三人称」という構え(構造)の崩壊と言ってもよい。この小説の裏表の二つのパートは、その崩壊しつつある感触をあくまで「内側」から生々しく描いていると思う。
しかし、解答として与えられているのは、複数の並行する世界が並立するという「構造」であり、半ば現実であり半ばフィクションであるそのような多世界共存の肯定であると言えると思う。しかし、複数世界の並立という事柄(図柄)は、「個々の世界内秩序=パースペクティブ」たちの配列を外側から見た時にはじめて与えられるものだ。これは「世界観」の問題だと言える。
パースペクティブとは、今、海を見ていて、風と潮の香りを感じている、という出来事(図)が「わたし(ここ)」において構成されている時のその構成(地)のことであり、世界観とは、天はドームで大地はお盆のようで、海の向こうは巨大な滝になっていて水が流れ落ち、ドーム+お盆=世界はたくさんの象たちによって下から支えられている、というようなことだ。世界観はパースペクティブの外にあり(パースペクティブを超越しており)そもそもパースペクティブが失調している人にとっては、世界観という問題が構成されないのではないか。
この小説では、もともと個々の世界の内的統合(パースペクティブ)の危うさが主題であったのが、外的な世界の複数性(世界観)の問題へと、問題の核心がズレてゆく。だがパースペクティブの崩壊とは、世界観が成り立たないということであるはずなのだ。それなのに、内的世界の分裂が外的世界の分岐に置き換えられることによって収束するというような形になっている。では、この二つは一体どうやって繋がっているのか。
例えば、それぞれに個々の世界としては孤立して統合を失っていた弟と姉という二つの世界が、接触によって、互いが互いの他者として機能して(互いが互いの見えない「背中」を確認し合うようにして)、「わたし」の領域(わたしと非わたしの分離)が安定し、そこに統合が(「一人称/三人称」構造が)成立する。そしてその後、互いが、自分とは異質な相手側の現実=フィクションを認めつつ、それぞれは自らの現実=フィクションを引き受けることになって、また分かれる、ということが考えられる。このようなラストならば納得が出来る。実際、一見そのようになっているように見えなくもない。
しかしそうだとしたら、姉と弟は直接的に出会わなければならないはずだ(そして、この二人がどのように出会い、どのようにして対話が可能になるのか、が、この小説の成否を決める重要なポイントとなったはずだと思う)。にもかかわらず、そうはなっていない。どこかからいきなり、「都市のゲートキーパー」という、都市の集合無意識を人格化したような存在が(つまり、三人称をあらかじめ保証するような存在が)現れて、「外からの(超越的)視線」がそこで先取りされてしまう。「都市のゲートキーパー」は一応、弟の世界の統覚者であるから完全に超越的ではないにしろ、それをやや踏み越えて、「この世界」全体の仕組みを外側から語るかのようですらある。さらにそもそも、弟の世界の統合失調の原因(弟による殺人)は、この「集合無意識=ゲートキーパー」が仕組んだことだという話になる。つまりこのような事態を外側から操作している「黒幕」がいた、という話になってしまう。
だから、終盤まである一定の緊張と密度と共に展開されていた小説の内的な持続とは関係のない外側からメタ存在がやってきて、いきなり「答え」が説明として与えられてしまったような感じになってしまっているように、ぼくには感じられる。ここでは一応、弟の世界にも姉の世界にも外的な環境として共有されていて、それらの複数の現実=フィクションの根拠となるものとしての「都市」の実在性(複数性、物質性、ネットワーク性)が、弟の世界における「弟の外部(メタ存在としての都市のゲートキーパーの存在)」の根拠ともなっていると言うことも出来るが、昨日書いたように、この小説で「都市」はそのような他者性(複数性)をもって浮かび上がるようには書かれていない。
●内側からの眺め(パースペクティブクオリア)と、外側からの把握(世界観・モデル)との位相の違いを媒介するものとしての、「二人称性」がこの小説では充分に追及されていなくて、いきなりその上位としてのメタレベルが出現してしまうことに、おそらくぼくは「納得できない」という引っ掛かりをもつのだと思う。とはいえこの小説は、このようなことを考えさせてくれる元になったという意味で、ぼくにとって貴重なものだ。