2021-03-27

●『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(鴻池留衣)を読んだ。

これはすごい。前半だけを読むと、とても複雑ではあるが、理解可能な知的操作によって組み上げられたコンセプチュアルな小説に見えるが、中盤のある地点で底が抜けて、それ以降は、とりとめもなくリアリティもない与太話が延々とつづくことになる。

とりとめがないというのは、パースペクティブが成り立っていないから(遠近法が歪んでいるというより、遠近法がない、という感じ)、先の展開についての見通しがたたないということだ。そして、与太話のリアリティのなさこそがこの小説のリアリティであり、おもしろくなさ(平板さ)こそがこの小説のおもしろさだ。おもしろくなさのおもしろさとは、ある場面のおもしろくなさと、次の場面のおもしろくなさが「別のおもしろくなさ」なので、決して飽きることがなく、次はどんなおもしろくなさが待っているのかとドキドキするということだ。予測できないおもしろくなさの質的変化による進行が、この小説のリアリティを支えていると思う。「おもしろくない」ということがこんなにおもしろい小説があるのか、という驚き。

小説の図としての展開が変わるのではなく、小説を下支えしていた地がまるっと入れ替わってしまうという瞬間が、鴻池留衣の小説にはある。「最後の自粛」にもあったし、「わがままロマンサー」にもあった。「わがままロマンサー」にはそれが複数回あった。しかしこの小説の後半では、地そのものがなくなってしまう感じになる。道がないところに、1、2メートルごとに、素材も工法も異なる道をその都度つくって、そこを進んでいくような感覚。統一されたパースペクティブ(見通し)を決してつくらないというこの力業を成立させるには、相当な力が投入される必要があったのではないか。

複数の(異なる目的をもつ)編集人たちによって改変されつづけているウィキペディアの記述の、ある瞬間のスナップショットが、そのままこの小説の本文であるという設定、また、登場人物の一人の名が「僕」であることによって、まったく別人が別の目的で書いた文章の寄せ集めを、あたかも「僕」による一人称の小説であるかのようにみせる(そして、「僕」の性別が途中まではっきりしない)という仕掛けは、あくまで知的なレベルで仕組まれた仕掛けのおもしろさであって、それをしたからといって、そのまま、この小説のような「見通しのたたなさ」を実現させられるというものではないだろう。前半の部分だけを読むのなら、おもしろいコンセプト(仕掛け)をもった興味深い作品ということだろうが、後半の、まったくとりとめがなくなってしまった展開の部分が、ちゃんとおもしろく読めるように書かれている(というか、後半こそがおもしろい)という事実が、この作品を「すごい」というべきものにしているのだと思う。