2023/10/09

⚫︎「すみれにはおばけが見えた」(鴻池留衣 「すばる」2023年3月号)について、ネタバレなしで書くのは無理だが、この小説は予備知識なしで読んだ方が絶対いいと思うので、未読の人は以下を読まない方がいいです。

(間違って目に入ってしまわないために、写真を一枚挟みます。)

この小説の主な視点人物は「拓哉」で、彼は小説家だ。小説の現在時である、おそらく2022年に異父妹である「すみれ」が亡くなったことをきっかけに、「すみれ」についての小説を、担当編集者と協議しながら書きつつある。視点人物は二人いて、拓哉と女性編集者だが、何ヶ所か、どちらの視点とも取れない、第三の視点が混じるかのような部分がある。そして、小説を最後まで読むと、「この小説」を書いているのは「すみれ」であることがわかる。彼女は、死んだ「兄の幽霊」と協議しながら、兄が生きているという体で、兄を主な視点人物として「この小説」を書いた。

(最後まで読んだ上で「すみれ側」から整理すると、拓哉とすみれが出会ったのは2003年3月で、拓哉が首を吊って亡くなったのが2005年の8月の終わりだから、「生きた」二人の関係は二年半程度でしかないことになる。その後、小説の現在時である2022年まで、17年間、すみれは兄の幽霊と共に年齢を重ねる。この小説では幽霊も歳をとる。)

拓哉の視点からは、死んでいるのはすみれであり、すみれの視点からは、死んでいるのは拓哉である。拓哉は、拓哉の視点からすみれについて書く。だから彼は、書き手であると同時に、書かれる視点人物である。拓哉は、すみれについて書こうとする自分を書く。あるいは、「すみれについて書こうとする自分」を通してすみれを書く。すみれの側から見れば、彼女は、すみれについて書こうとする拓哉と、拓哉がすみれについて書きつつある小説を、書く。すみれは、自分について書こうとする拓哉を書き、拓哉によって書かれた自分を書く。つまり、「自分について書こうとする拓哉」を通じて自分について書く。

男性が少女像を描く。女性が、男性が描く少女像を通して自分を描く。この相互包摂する二つの視点を、外側から制御するのは男性作家である鴻池留衣だ(ロリータ側から描かれた『ロリータ』を書くナボコフ、のような)。しかし、この小説が書いているもう一つのことは、小説を制御しているはずの小説家(拓哉・すみれ)は、決して小説を制御し切ることはできないということでもある。この制御の困難は、そのまま現実レベル(鴻池留衣)にもスライドして適応されるだろう。

すみれは嘘をつく。この小説で「嘘」はとても重要な要素だ。「少女は嘘をつく」というのはコケティッシュな少女像の紋切り型だろう。嘘によって男性を振り回す、など。しかしそれだけでなく、このことは、小説の語りは嘘をつく、あるいは、あらゆる語りは嘘である可能性を持つ、という語りの地盤そのものへの不信に、ダイレクトにつながる。すみれは嘘をつき、その嘘によって拓哉は身を滅ぼす。しかし、すみれについて書こうとする拓哉もまた、嘘の記述や発言を繰り返し、簡単に前言撤回しては、また別の嘘を次々と繰り出す。そもそも、「この小説」を書いているのが嘘つきのすみれなのだから、あらゆる記述が信用ならないもので、全ての言葉を疑心暗鬼と共に読むことになる。

しかし同時に、すみれは本当に嘘をついているのかという疑問も湧く。「嘘」とされてしまっている、すみれの言うことこそが真実なのではないか。すみれは本当に、エレベーターで《変な男の人に会った》のだし、異父兄である拓哉から《やっちゃいけないこと》をされたのではないか。だがそれは、現実を「現実」として登録するための象徴的秩序の中に収まる場所がないから、「嘘」という地位しか与えられないのではないか。実際彼女は、母から異父兄の存在を知らされる前に、担任の教師に「兄」の存在を語っていた。すみれは、嘘をつこうとして真実を語ってしまうような存在なのではないか。あらゆることが嘘の可能性を持つ疑心暗鬼的な語りの連なりの中では、真実は「嘘」を通して、というか、まさに「嘘」としてこそ出来するのではないか。

あらゆる語りが嘘である可能性を持つという不信と不確かさと、嘘とされるものこそが真実を語っているのではないかという妙なリアリティ(このリアリティは読むものに「疾しさ」を喚起させる)。この相反する二つの面が絡まり合って、読む者に強い緊張が強いられる極めて密度の高い世界が立ち上がる。不透明に仄めかされたなまま放置される不穏な細部の数々(例えば、父の性的な趣味や、拓哉の部屋に隠された《本当に見られてはまずいもの》など)が、不審と真理の感触の間を激しく振動する。

⚫︎また別の面として、この作品は家族(父と母)、特に父についての小説でもある。この小説で父は、経済力があり、独断的、強権的であり、性的にも魅力があり旺盛であるという、典型的な強い父的要素を持つ。そして父は(『シュタインズゲート』のまゆしいのように)、さまざまな仕方で繰り返し何度も死ぬ。飛び降り、殺人、病死、首吊り…。このような死因のブレは、この小説の基本でもある語りの不確かさの実例でもあるが、それ以上に「何度でも父を殺したい」という書き手(表層的には拓哉だが、深層的にはすみれだ)の感情の表れであるようだ。父の死が詳しく書かれるのは、拓哉による殺人の場面と、拓哉が末期癌の父を訪ねる場面の二つのパターンだが、前者の場面では、若い頃よりも柔軟になって人の言うことを聞くようになった父の変化を感じ、父をこれから殺すことへの後ろめたさを感じているが、後者の場面では、病気で衰弱していても《想像していたよりも、父は父だった》という変わらなさの印象を強く持ち、《父に対して何度「死ね」と言ったことか。口でも、心でも》と書かれ、変わらぬ父への反発を感じている。ただしこの感情のブレは、相反するものというよりも感情の幅や深みを感じさせ(感情においては、矛盾する感情の同居は普通のことだ)、つまり語りの不審や不確かさよりもむしろ、拓哉の父に対する感情に厚みや説得力を与えているように読める。