2021-03-24

●「ナイス・エイジ」(鴻池留衣)を読んだ。

去年、一年間「新人小説月評」をやっていて、もっとも興味をひかれた作家が鴻池留衣だった。「最後の自粛」(新潮)は上半期の五作に入り、「わがままロマンサー」(文學界)は下半期の五作に入った。「わがままロマンサー」は年間ベストだと思った。ただ、それ以前の作品はデビュー作の「二人組み」しか読んでなかったから、二作目の「ナイス・エイジ」を読んでみた。

面白かったが、「最後の自粛」や「わがままロマンサー」が、アイロニーを複雑骨折させたみたいな圧倒的な感じだったのに比べれば、そこまで捻れてはいなくて、案外素直だと思ってしまった。とはいえ、SFではあるが、あらゆるSF的道具立てが不発に終わるSFという感じで、この、「不発感」の徹底がこの作家の特異性だと思え、とても興味深く読んだ。一作目(「二人組み」)とはかなり作風を変えていて、この二作目がこれ以降のこの作家の小説の基本的なスタイルを決めているように思う(とはいえ、一作目からも既に相当濃厚な曲者感が匂うが)。お話は、『シュタインズゲート』の世界観のなかで演じられる『御先祖様万々歳!』みたいな感じで、オチは「量子自殺」的な感じか。

無理矢理に似ている作家を探すとすれば、七十年代の筒井康隆が、現在のような社会・文化・情報技術のもとで生きていたとしたら、このような感じの小説を書くのかもしれない、とは思う。ただ、やはり違うと思うのは、不発感そのものが主題とも言える「ナイス・エイジ」をみても、この作家にはマッチョイズムへの強い忌避があるように思われるところだ。

とはいえ、それも単純ではない。「最後の自粛」などはまさに、お話としては、ホモソーシャル的なボーイズクラブのなかで、ひ弱な青年(たち)がカルトを率いるマッチョなカリスマに育っていってしまう話なのだが(つまり、お話自体はよくある話なのだが)、その様がたんにアイロニカルに批判的に捉えられているということでもない。積極的にミイラ取りがミイラになりにいっているかのような感覚もあり、だがそれは、ミイラになりにいくことによってこそミイラを逃れうるという感覚でもあって、そこに仕込まれた、ミームに対する独自の距離感、複雑骨折して乱反射するアイロニーと露悪と偽悪の感触は、他ではちょっと感じることの出来ない質をもつもので、この感じをどのように受け止めればいいのか困惑させられる(正直、ほんとうにこれを肯定的に受け止めていいものかどうかよく分からない)。

●以下は、去年の「新人小説月評」で鴻池留衣について書いた部分。特に「最後の自粛」にかんして、「捉え切れていない感」が自分でもあるが。

鴻池留衣「最後の自粛」(新潮)。本作はアイロニーを描き出す。男子校的ホモソーシャル空間、疑似科学陰謀論、集団のカルト化、テロリズム…が、胡散臭げに演じられる。これらを発動、発展させる燃料は、死を恐れず(隠蔽せず)に「生の実感」を重んじるヒロイズムだ。郊外の歴史ある男子校はその温床であり格好の舞台となる。主人公《村瀬》は自らの行動の自由を抑制する《抑圧者》と闘う。彼には、マイノリティという認識と、力と操作の拡大を望むマッチョな欲望が同居する。だが、このような主題には既視感があるとも言える。一方で、異常気象、東京オリンピック、COVID-19という現在進行する出来事とリンクしてもいる。本作は「陰謀する側」から見られた裏返しの陰謀論である。気象=自然を操作することで世界(他者)を操作しようとする《地球温暖化研究会》にとって、自分たちの操作の外で生じたコロナが世界を変えることは敗北である(操作不能な現実=コロナによる陰謀論の綻び)。東京オリンピック延期の「原因」は自分たちでなければならないのにコロナとなってしまった。ここで《抑圧者》への闘争が「陰謀論の主体」の座を巡る(コロナとの)競争へと変質してしまう。彼らをテロに向かわせるこの転倒が描かれる点が重要だ。

鴻池留衣「わがままロマンサー」(文學界)。展開も落とし所も先が読めず「やられた」という読了感。ゲイでもありノンケでもあり、タチでもありネコでもあり、BL絵師でもありゲイビデオ俳優でもありと、局面により属性がころころひっくり返る志村というヤヌス的青年を媒介とすることで、腐女子のBL漫画家の妻と、ロリコン(+熟女好き)の小説家の夫が、相容れない異質な欲望を互いに映し合うように交錯させることが可能になる。男として男と性交したいという妻の欲望、ノンケでありながらゲイとして性交したいという夫の欲望、これら不可能な欲望は志村を介すことによって(仮想的に)実現される。人物たちは皆欲望のモンスターで、その欲望は人ではなく属性に向かい、他者を欲望の対象としてしか扱わず、ただ利己的に消費する。にもかかわらず、人物たちは他者の欲望に巻き込まれることでいつの間にか自己から逸脱しはじめ、他者の欲望を自己の内に入れ子的に巻き込むことで相互変化する。他者を手段としてしか扱わないことを徹底することで結果としてコミュニケーションと変身が出来するという逆説。この、人が悪いアイロニーの感触や、疑似的私小説の話者に信用ならないロクデナシを置く露悪的やり方などから、作者の曲者性が強く匂う。