2023/04/18

YouTubeの動画だったか、そこに挿入される広告だったか、とにかくファッション系の広告的な動画から「女性見えしたい方におすすめです」という言葉が聞こえてきて、聞いたことがなかった表現だと新鮮さを感じた。「女性見えしたい」とは、意味としてはおそらく「女性的に(フェミニンに)見せたい」というようなことだろうと思う。だだ、意味はほぼ同じだとしても、表現としての感触が違う。

「女性的に見せたい」の場合、そのように「見せる」という能動性は「わたし」の側にあり、しかし実際にそのように「見る」のは他者であるから、わたしの能動性には失敗する可能性が含まれており、だから「~たい」という希望・欲望を示す語がその後に続く。この、希望・欲望(失敗可能性)もまた「わたし」の側にある。「わたし」は自分を女性的に見せようとしているという意思がある、ということが表現に含まれる。

「女性見えしたい」の場合、おそらくだが、「女性見え」という表現は、「わたし」ではない誰かが「わたし」の中に女性的なものを見出している、その時の他者の持つ感覚、あるいは、他者が「わたし」の中に女性的なものを見出しているその場面が想定されているのだろうと思われる。この場面において「わたし」は対象であって、主体ではない。ここでは、「わたし」の意思(希望・欲望)や能動性とは関係なく、言ってみれば「自然に」、他者が「わたし」の中に女性的な何かを発見している。しかし、そのような事態(場面)の到来を、「わたし」が事前に、希望・欲望しているということが「~したい」という語で表現される。

(「させたい」という表現は、「わたし」が他者に「そうさせる」事を望んでいるということだが、「したい」は、「わたし」自身が「そうする」ことを望んでいる。つまり、「わたし」が「女性見え」する存在として、その場に現象「したい」ということを表現している。)

表現としては、「女性見え」の場面に「わたし」の能動性はないのだが、そのような場面を先取り的に欲望し、そのような場面を作り出そうと画策する能動性(希望・欲望)はあり(「~したい」)、しかしそれが「能動性」として顕在化することは望ましくなく、あたかも自然にそのような場面が訪れた(他者の中に自然にそのような感覚が生まれた)かのように事が起こることが望まれているという感じだろうか。

世界の中に「わたし」がいて、同じく世界の中にいる「他者」に対して何らかの影響・効果を直接的に与えようとする能動性(欲望)に対して、「わたし」が、わたしもその一部である世界-関係の外に立った上で、わたしもその一部である「ある場面」に対して何らかの影響・効果を(演出家のようにして)与えようとする能動性(欲望)の違いが、表現の違いとして現れている、という感じか。

(しかしそもそも、「女性的に見せたい」には「わたし」をそのように「見る」不特定の他者の視線、および「女性的であること」の一般的価値がその欲望の内部に既に織り込まれており、その意味では、他者への直接的・水平的な作用というよりは、あまりこのような言葉は使いたくないが「象徴界」を経由した欲望であることには留意する必要がある。この場合むしろ「女性見えしたい」の方が、ある程度具体性のある「場面」が想定されているのだとすれば、その分、背景としての象徴界が希薄、あるいはそこから遠い形の欲望なのかもしれないという意味で、ある関係性に対して直接的欲望であると言えるのかもしれない。)

●ある場面に、主体としてではなく、あくまで対象として現れたいという欲望の形(そのような主体性)と、主体としてではなく、対象として現れるものを欲望するという欲望の形(主体性)は、相補的であり、それがつまり男性中心主義的な欲望の体制なのだという、ありふれたオチに落ち着く話にすぎないのか…。そういう話に落としたくはないなあ、と。

●ただ、(なんか無難な言い方みたいになってしまうが)「女性的に見せたい」と「女性見えしたい」とは、一人の人の中であっても対立するものでも排他的なものでもなく、互いに互いを呑み込み合いながら、複雑な欲望の様態を編み込んでいるのではないかと思われる。