2023/10/10

⚫︎嘘と妄想は相容れない。たとえば、ある種の病をもつ人にとって、妄想は現実以上に決定的に現実的であろう。妄想は「現実(真実)」として、直接的に脳に刻み込まれるように書き込まれる。我々は、信じられない場面に立ち会うと、目を疑い、耳を疑うが、妄想は、そのような「疑う」という距離感を許さない。妄想を持つ者にとって、妄想を疑う自由は剥奪されている。妄想こそが世界の真実であり、それは、疑うことのできない決定的な神の声として降臨する。だが問題なのは、その「真実」が、他者たちの「現実」と食い違い、他者と共有不可能なものであるというところだ。しかし「嘘」は違う。人は、他者に向かって嘘をつく。そして、人は、それが「現実」と異なることだと知っていて、意識的にそれとは異なる「嘘」をつく。嘘は嘘だと自覚され、嘘をつく主体は、その嘘をコントロールしていると思っている。だが実は、「嘘」こそが主体をコンロールしている。人は、意識的に嘘をつき、(他者に向けて)嘘をコントロールしているつもりでいながら、嘘に導かれ、嘘こそが(別の通路を通じて)その主体の真実を赤裸々に語ってしまっている。「すみれにはおばけが見えた」(鴻池留衣 )のリアリティは、妄想のリアリティではなく、嘘のリアリティだと思われる。

(例えば、デイヴィット・リンチは、嘘のリアリティではなく、妄想のリアリティなのだと思う。)

⚫︎(以下、「すみれにはおばけが見えた」の決定的なネタバレを含みます。)

「すみれにはおばけが見えた」の重要なシーンの一つに、小説家である拓哉が、タレントである異父妹のすみれが出ているバラエティ番組を観るところがある。すみれはそこで、子供の頃に「お兄ちゃん」と結婚しようと約束したというエピソードを語る。それは、いかにも子供らしい、可愛らしい、他愛のないエピソードとして、その場に好意的に受け入れられる。しかしそのエピソードが、小学校五年生という、「兄と結婚する」などということを無邪気に語る年齢ではない時のものであることが知られ、場の空気は変化する。さらにその時、兄が大学一年であったことを告げると《観覧席から穏やかな悲鳴が上がる》。それを観ている兄の拓哉は、テレビを観ている視聴者の多くが同様の反応をしただろうと推測し、それが《彼女の兄への生理的嫌悪の表明》だろうと、有名人で嘘つきの妹を持つことのリスクの大きさを恐怖する。

小説を最後まで読むと、まさにこの、すみれが小学五年生で拓哉が大学一年生の時に起きた決定的な「事件」が、この小説のあらゆる場面の裏で響いているのだということがわかり、この場面がそれを暗に表現する兆候的な場面であることがわかる。ごく表面的に読めば、これはすみれが自らの欲望を「嘘」を通して語っていることになるが、その場面を兄がテレビで観ているということは、兄にとっての秘められた欲望が、内と外とが反転することで露わになって他者に筒抜けになっているのではないかと、兄が恐怖しているという場面だとも言える。もしかすると自覚さえもないのかもしれない、自らの後ろめたい欲望(あるいは隠された「事実」)がテレビを通じてだだ漏れに拡散されているのではないか、と。

小説のラストでは、すみれが小学五年生、拓哉が大学一年生のときに、すみれがついた「嘘」が、拓哉を死に追いやったということになっている。しかしここで、すみれが本当に嘘をついているのかどうかが、よくわからない。この嘘は、たんに「すみれにとっての事実(欲望)」であるに過ぎないのか。だが、これがたんに嘘であれば、拓哉は死ぬ必要はないのではないか。むしろ、この小説に書かれていることこそ嘘であり、すみれの嘘こそが真実であるかもしれない。この決定不可能性が、この小説の最も怖いところなのではないか。この小説全体の「作者」であるすみれは、自分自身に「嘘つき」という役を割り振ることで、(強く慕っている)兄の行為を隠蔽しようとしていると考えることもできるのだ。

だが、この、すみれによる隠蔽行為(すみれの嘘)こそが、むしろ兄の欲望を露わに表現してしまっているとも言える。これがこの小説のヤバいところだと思う。

(この小説が、拓哉とすみれという、相互包摂的な二重の視点を持つということは、ここで描かれる欲望のありようや行為そのものもまた、相互貫入的に構成されており、どちらか一方の主体に還元できないということではあるのだが。)

⚫︎Wikipediaの鴻池留衣の項に、好きな小説は『春琴抄』と書いてあって、ああ、と思った。