『時をかける少女』(細田守)

●『時をかける少女』(細田守)をDVDで。評判の作品だったから期待して観たけど、丁寧につくってはあるけど、いまひとつ冴えない作品だと思う。観ながらずっと考えていたのは、アニメーションにおける風景表現のことと、それとも繋がるのだが、アニメにとっての「リアリティ」のあり様についてだった。つまりアニメは基本的に「絵」だということで、「絵」のリアリティは、描かれた対象との類似によっては決して保証されないのだなあ、ということだ。
時をかける少女』では、背景となる風景がとても丁寧に表現されている。しかも、新海誠みたいに、風景が安易に感情に流れてしまうようなことも、抑制されている。そこには過度な誇張や強調、象徴的な変形は抑制されており、きわめて写実的だと言える。(夏!、青い空!、強い光!、入道雲!、みたいな表現は、あまりにクリシェに過ぎるとは思うけど。)この映画には、東京国立博物館上野駅前の交差点のように実在する風景が出て来るのだが、それらもとても緻密に再現されているように思う。しかし、そのことが作品の厚みにあまり繋がっていないように思えた。あるいは、登場人物たちは、いわゆるアニメ絵ではなく、ある程度現代的な風俗を取り入れつつ、今時の一般的な観客に受け入れられやすいようなデフォルメがなされている。(ここでは、主人公は、現実の女子高生がモデルとされるというよりも、最近の風俗的な表象物、主に流行のマンガの絵柄などが参照されていると言えるだろう。)しかしそのことがまた、この作品の薄さにつながっているようにも思えた。
例えば、一昨日の日記で否定的に触れた『トップをねらえ2!』の主人公の女の子は、その作家や観客の欲望のみに沿って造形されていて、それは現実的な女性とほとんど関係がない記号的な「キャラ」であろう。しかし、記号的な「キャラ」に過ぎないからこそ、それを生々しいものとして成立させるために、欲望の高密度な圧縮があり、フォルムの過度な洗練がある。そこには、現実とは関係なく、欲望や妄想の力だけで対象をつくり出してしまおうという強い力が作用している。それによって、「絵」でしかないキャラクターに、なんとも生々しいエロが発生する。(多くのアニメ作品では、ファルムの洗練と欲望の強さとがマニエリスムを生んでしまいがちなのだが、ガイナックスの作品は不思議とマニエリスムには陥らない生々しさがいつもある。)それをすんなり受け入れられるかどうか(それが好きか嫌いか)はまた別の話だけど、そこには確かに濃い密度によって生まれるリアリティがある。そのようなキャラに比べればすっと一般的に受け入れられやすいであろう宮崎駿の少女キャラクター(例えばラナ)もまた、一般性への配慮や現実に存在する少女との類似によって成立しているのではなく、ひたすら宮崎駿の欲望と妄想の濃度(と、勿論技術)によって成立していて、そこにリアリティと魅力との源泉があると思われる。あるいは、ほとんど重力を無視しているかのようなコナンの疾走がそれでもリアルなのは、宮崎駿の欲望にとって(欲望の体系において)それがリアルであるからだろう。しかし、『時をかける少女』の主人公には、高濃度な欲望も、逆に欲望を客体化する徹底したリアリズムもなく、適度な一般性や風俗性への配慮ばかりが強く出ているように思う。勿論これは、作品をマニアックな閉じたものにしないために必要な配慮ではあろうけど、そのことによって主人公のキャラクターの魅力が薄いものとなり、リアリティが希薄になっているように感じられた。ぶっちゃけて言えば、二人の男の子も含めて、キャラクターの造形がお座なりなのだと思う。
風景表現にも同じようなことが言えて、それはとても緻密で丁寧だが、丁寧でしかない。「絵」は、丁寧に写すだけではリアルにならない。例えば実写映画では、東京国立博物館の前の噴水で撮影すれば、実際のそこの風景が写り込む。しかし、絵で、そこの風景をただそのまま写したからといって、それは「その場所」とはほとんど関係がない。ただ描いただけでは、風景画は、風景よりも風景画に似てしまう。アニメはアニメに似てしまう。東京国立博物館の内部などは、かなり忠実に再現されているが、それが分るのはぼくがたまたまそこへ行ったことがあるからであって、そこを知らない人にも、「どこ」かは分らない「どこか」としての場所のリアリティを感じさせるようなものではなく、たんに博物館っぽい場所がアニメ的に「説明されている」だけのように思われる。主人公の住んでいる家や町などの描写も説明の域を出ていないように思われた。(いわゆる「女投げ」とかが動きとしてちゃんと表現されているところとか、日本のアニメーションならではの技術的な高度さは凄いと思うけど。)
●この映画のアニメーションとしてのテーマはおそらく、走ることと跳ぶこと(自転車も含めて)、落下してきたものがぶつかること、転がる(転ぶ)ことであり、それらのバリエーションが執拗に反復されることであると思われる。(「ビューティフルドリーマー」の後半だけを拡大したような感じ。)物語は、ほとんどそのために組み立てられたようなものだとさえ言えるかもしれない。しかし、同一の動きが執拗に反復されることによって生じるナンセンスな強度と、ある意味、思春期ものの王道とも言えるような物語とが、あまり上手く噛み合ってはいないように感じられた。(というか逆に、上手く噛み合い過ぎ、なのかもしれない。)おなじような動きが繰り返し反復されることの乾いた面白さと、思春期ものの物語が生じさせるある種の感情とが、互いを打ち消し合って、互いを弱くしてしまっているのではないだろうか。主人公の女の子をもっとがさつな感じにして、青春モノっぽい感傷をもっと抑えめにして、動きの反復をもっと徹底してやった方が面白くなったのではないかと思うのだけど、それでは「商品」としてはダメなのかもしれない。(それでは『時をかける少女』ではなくなってしまうかも、)ぼくのこの映画への不満は結局、商品として成り立たせるための配慮が作品を全体的に中途半端にしているということなのだろうか。だとすれば、そこを責めるのは酷なのかもしれない。(この映画には、マニアックに閉じることを避けようとすることが逆に「アニメ」という枠組みに頼ることに(閉じ込められることに)なってしまっている、というような感触があるのだ。)