●14日にする講義(テクノロジーと人間の感覚、感情、欲望、想像力の関係についてフィクション――主にアニメ――から考えるというもの)の内容について考えていた。
8日の日記に書いた作品に加えて、そういえば『serial experiments lain』(98)という重要な作品があったと思い出し、ネットで何話か観たりした。95年の押井版「攻殻」からは、一方でそれをぐっと社会派化した神山版「攻殻」へと流れてく線が当然あるけど、それとは別に、その実存的側面は、オカルト風味と混じり合って「シリアル…」へと伸びてゆく線によってより深められた感じがあると思う。「シリアル…」の主人公レインは、草薙素子のきわめて限定されたある一面だけを受け継いで、それを徹底化したという感じがある。
押井版「攻殻」で問題となっているのは、機械と人間、体と心、ネットと意識、の間の境界が揺らぐということだけど(揺らぐからこそ「ゴースト」というものが実体であるかのように求められる)、「シリアル…」ではその揺らぎは、世界とわたしの境界へとスライドして、その境界があいまいになることでわたしが世界化する(つまり「神」になる、「まどマギ」のラストみたいに)という事態があらわれる。ネットワークは、無限に拡張可能だとしても、それが世界の全てをカバーするに至ることは決してないけど、そこでオカルトは一気に「全体」へ至る。
そして、世界とわたしとの境界のゆらぎは、インターネットというテクノロジーから拡張現実というまた別のテクノロジーへと場所を移動することによってマイルドになって(オカルトからファンタジーになって)『電脳コイル』という作品につながってゆくように思う。
そんなことを考えながら、講義の構成として、「1.ネットと計算機の心身問題」「2.相対性理論的な<感情>の出現(「今」の消失)」「3.拡張身体と拡張現実(「ここ」の消失)」と進んで、「今」と「ここ」の客観性が消失することで、並行世界やループする時間がリアルになってくる(「4.多・一関係の変質とループする物語のリアリティ」)という感じの展開を考えた。ここで「物語」というものの構造が大きく変わってくるように思う(物語がネットワーク的に複雑化する――ほとんど捉え難いほど複雑になる――ことと、だからこそ、その結節点としての「キャラ」「萌え」「(泣ける、みたいな)単純化・自動化された感情」が重要になってくること)。そこまで行ってその次の段階として「ピアピア動画」や「ガッチャマンクラウズ」のような「5.<社会>のイメージの変質」がみえてくる。そしてその先に「アッチェレランド」が見据えている技術的特異点の問題が見える(「6.人間の拡張と人間の限界」)、のではないか、と。
ごく雑でおおざっぱな見通しで、細かいところはこれから考えるのだけど。このなかでぼく自身が一番惹かれるのはなんといっても「ループする物語」だ。
とりあえず、出発点として「ビューティフル・ドリーマー」を置いて、そこから、「ゼーガペイン」へと伸びてゆく線と、「シュタインズゲート」へと伸びてゆく線について考えてみようと思っている。ループ物語としては「ハルヒ」は(「エンドレスエイト」は勿論だけど、並行世界物としての「消失」も)とても重要だと思うけど、今回はテクノロジーとの関係が主題なので、ここには上手くハマらない。
で、「まどマギ」だけど、ぼくはこれはループする物語には入らないと思っている。いや、この言い方はちょっと一方的すぎるかもしれないので、ぼくが惹かれるループ物とは別のところにある、と言うべきか。
確か、ループ設定が明かされるのは(全12話の)10話になってからで、しかも、具体的にループしている状態はさらっとダイジェストのように描かれるだけだ(これは確かに世界がひっくり返るどんでん返しではあるのだけど、「驚く」というより「なるほど」という感じが強い)。つまり、ループする世界というのはこの作品の設定を成り立たせるためのネタの一つ、方便の一つでしかなく、あるいは、ほむらというキャラの行動の「説明」としてあるのであって、世界がループする感触(ループしてしまう必然性)はこの作品のリアリティの根幹にかかわるものとは思えないから(この作品の根幹にあるのは、やはり「魔法少女」という存在のあり様――そのシステムと、それによって惹起される感情――にあると思う)。
(「まどマギ」劇場版はまだ観られていない。講義の日までに観たいのだけど、地元のシネコンではやっていないので難しい感じ…)