●『境界線上のホライゾン』の第二シーズンを、今のところ三回目まですべて観てしまっている。面白いのかと言われれば、面白いとは言えないのだけど、つい気になって観てしまう。とはいっても、第一シーズンはDVDの三巻目までしか観ていないので、話の展開がどうなっているのかはよくわかっていない。でも(こういう言い方はあんまりだと思うけど)どうせ話が分かったところで大したことはないのだろうと思っている。この物語を本気でちゃんと理解しようという気には、なかなかならない。話はきっと大したことないと思われるのに、設定だけがどんどん複雑になってゆく様の異様さを、あんぐりと口をあけながら眺めている。
とにかくこの作品の異様さは、イメージがまったく制御されていないというところにある。物語によっても、美的な趣味によっても、作品の構築性によっても抑制されることのないイメージが、ひたすら垂れ流し的に増殖して行く。だいたい、そんなにたくさんキャラクターがでてくる必要がどこにあるのか分からないというほど次々にあらわれる。物語の停滞を新キャラの登場で動かすという安易な手は確かにあるけど、そんなレベルを遙かに越えて、詰め込むだけ詰め込んでいるという感じ。しかもその増殖するキャラクターの「完成度」へのこだわりもほとんどないかのようなのだ。とにかく、様々な属性を適宜合成したキャラクターが、必然性も趣味も完成度も関係なく次々に投入される。趣味も完成度も関係ないということは、技術的に可能でさえあればなんでもありということだ。こんなに「無意識による検閲」をふっきってしまっている作品はちょっと他に想像できない。技術とデーベースが直結してしまって、その間に「人間の欲望」が介在していないかのようだ。
確かに、アニメやおたく的イメージ「全体」というフレームでみるならば、抑制の効かないイメージの無限増殖みたいなことは今では普通のこととも言えるし珍しくもないかもしれない。しかしそれでも、一個一個の「作品(あるいはキャラクター)」というレベルでみれば(それがどんなに異様にみえる「趣味」であっても)、一定の趣味的な統制というのは働いているように思う。際限なく「趣味」が多様化しているとしても、その一つ一つの趣味内では内的な統制が働いている(そうでなければ趣味=欲望とはならない)。たとえ、あるキャラクターが様々な要素のツギハギによってできていたとしても、その諸要素を「一人のキャラ」へと統合する何かがなければ、そのキャラへの欲望は発動しない。しかし『境界線上のホライゾン』では、ひたすらバリエーションの展開だけがあり、そこで現れた形象に対する判断(完成度が高い/低い、あり/なし、好き/嫌いなど)が存在しないかのようなのだ。一回顕在化されたイメージは、顕在化されてしまったからには淘汰されることなくすべてが作品上にあらわ、並べられる、とでもいうような感じ。
そして、さらに異様なのは、だだ漏れのように次々とあらわれるイメージたちは、ただ現れては消えるのではなく、それらすべてを体系によって把捉しようという強い欲望が他方で働いている点だ。技術的に可能なイメージはすべて顕在化させる。イメージ生産のレベルでは抑制も趣味もない。しかし、一度生まれてしまったイメージについては、今度はそれを「体系」によってきちんと秩序だてて配列しなければ気が済まない。生産における抑制のなさと、管理における潔癖さという真逆の力。『境界線上のホライゾン』の異様さは、ここからきているのではないだろうか。物語は大したことないのに、「設定だけがどんどん複雑になってゆく」というのは、そういうことなのではないか。
とにかく自動的にイメージをどんどん生産してゆき、その野放図なイメージ群を今度は次々に体系内に配置してゆく。もちろん、際限なく膨らんでゆくので体系が完成することはないだろう。たから、作品の進行は物語の進行というより体系の拡大と細分化としてあらわれる(設定だけが複雑になってゆく…)。これはある意味、誇大妄想に近い感触なのかも。このような誇大妄想的フィクションのあり様は、神秘主義とかオカルト系にはわりとあるのかもしれない(オカルト的体系の律義さととりとめのなさ…)。ただ、アニメーションという最強のイメージ生産機械がそこに接続されることで、まったく違った感触が生まれているということなのか。