●竹橋の近代美術館でクレー展、そのあと、六本木の新美術館でワシントン・ナショナルギャラリー展。クレーはもちろん面白かったし、良かったのだけど、ワシントン・ナショナルギャラリー展があまりにもすごかったので、ちょっと霞んでしまった。とはいえ、油絵具の物質性のもつプレゼンスの強さの暴力性に対する、クレーのささやかさ(機知や機転や柔らかさによる自由)の意味ということを感じもした。
●新美術館の展示は、まずマネがどーんとあって、おーっとなって、次にモネがどーん、ルノアールがどーんで、最後にセザンヌがどっかーん、とある。名前だけ並べるとそんな展示よくあるじゃんとしか思えないけど、作品の質と大きさ、そして展示空間のゆったりした広さが全然違う。こんなに充実して粒ぞろいの「ナントカ美術館展」ははじめて。前に西洋美術館でやっていたバーンズコレクション展は、渋くて、面白い作品(隠れた名作みたいな)がいっぱいあって、それも面白いのだけと、こちらは、それぞれの作家のメジャーどころの作品がどーんと来ていて、しかも、スペースも展示の仕方もゆったりしているので、それらの作品をとてもよい状態で観られる。
最後の部屋にセザンヌの初期から晩年までの大作が六点並んでいるところを観て、前もって「ワシントン・ナショナルギャラリー展、やばいっすよ」みたいなことは聞いてはいたけど、ここまですごいことになっているとは予想していなかったので、驚くというよりビビッてしまった。
●初期セザンヌの代表作と言える父親を描いた絵をはじめて観たけど、これは既に完全にセザンヌで、「セザンヌははじめからセザンヌだったのか」ということに驚いた。
父親の上半身の軸と下半身の軸があきらかに左右にずれていて、そしてそのズレを父が読む新聞が隠している。これはもう、同じ壁に並べられている最晩年の静物画で、テーブルの左側と右側がずれていて、そのズレを布が隠しているのと同じ構造なのだ。さらに、椅子の向きと父親の座る向きがずれている。椅子の角度と、父が座っている角度もずれている。遠近法的に椅子の形が歪んでいるし、椅子の前後の厚みに対して、背後のドアまでの距離が短すぎる。さらに、画面右側は椅子と背後のドアまでの距離がわかるように描かれているのに、左側は曖昧にぼかされている。あと、構図があきらかにおかしくて、画面の上の方が不自然に空いているのに、下の方が不自然に詰まっている。しかしこれら数々のズレや歪みや不自然さが、それぞれに作用しあい、反響したり相殺したり対立したりして、絵画空間をギシギシと軋ませるような、力と動きをつくっている。
あと、やはりこの異様な絵の具の厚塗りに込められた「念」のようなものが、絵画空間の軋みを一層強く押し出しているように思える。この厚塗りは、セザンヌからは次第に失われてゆくのだけど、これほどの厚塗りをセザンヌに強いる「業の強さ」は持続し、それこそが、セザンヌの作品の異様な展開の力となってゆくのだろうと感じられた。この人、絶対にどこかおかしいよ、というような、恐怖のような感情を、初期の作品から感じた。
●一方、マネはセザンヌとは対極にいるような画家だと思った。筆触によってイメージを捉える手つきの的確さと速さ。しかし、その「速い」イメージはどこかで決定的に薄くて(クールベや初期セザンヌがしたように油絵具の物質性の深さのなかにイメージと世界とのつながりを見出そうとする、というようなことがなくて、イメージはあくまでイメージであってイメージでしかない)、しかし、その薄いイメージを画面のなかに謎のように配置することによって、イメージそのものの魅惑のような状態をつくりあげてゆく。それは最初の現代画家といってもいい感じで、実際、現在描かれている絵画の大半は、セザンヌにではなくマネにその起源をもつように思われる。
あと、ぼくはマネを観るといつもデュシャンを思い出す。マネの作品の「冷たさ」の感触が、どこかでデュシャンの「冷たさ」と響いているように感じるのだ(マネからは、ルノアール的なところがまったく感じられない、イメージに魅惑されるが、イメージを愛でることはない、という感じ)。実際、マネの「鉄道」はデュシャンの「大ガラス」と構造が似ている。デュシャンが上下に分けたものを、マネは(画家だから)鉄柱を挟んだ前後として表しているように思える。