●昨日クレーを観ていて思ったのは、一部を除いたほとんどの作品で、線描のレイヤーと色彩のレイヤーとがきっぱり分離しているということ。例えばマティスにあるような、線と色彩とが、ある部分では絡まり合っていて、別の部分では離反しているみたいな複雑な関係がつくられることがほとんどない(まったくないわけではないけど)。線描は線描としてあり、色彩は色彩としてあって、それぞれが後から組み合わされるという感じ。だから、組み換えも可能で、線描の部分だけ転写して、その上から彩色する、みたいな技法が出てくることになる。クレーにとって、画面を半分に切って左右を入れ替えるみたいな操作と同様に、線描部分と色彩の部分とを(アニメの人物と背景みたいに)それぞれ入れ替えることも可能なのだろう。
このきっぱりした分離が、絵画というよりむしろ、図画工作的な手仕事の自由さや柔軟さや隙間を感じさせて、好ましいところでもあるのだけど、絵画として観ようとすると、ちょっと物足りないように感じられてしまう。つまり、一枚一枚の作品における認知的な複雑さの度合いがやや低い感じ。何枚もまとめて観ることで、ようやくその作品間の働いている「動き」の面白さがみえてくる、というのか。
いやだから、クレーを絵画として観るのが間違いで、あくまで機知や機転やユーモアや茶目っ気による図画工作的手試行=思考の展開として観るべきものなのかもしれない。そこから感じ取るべきものは、ある達成ではなく、そこにあらわれている精神の運動の自由さの息吹きようなものだろう。クレーはその「とらわれてなさ」こそか素晴らしいのだ(しかしそれは一つの場での探究=深化となかなか相容れない)。
だから、クレーの展覧会が「終わらないアトリエ」とされるのは正しいのかもしれない。少し前に、マティスの展覧会で終わることのないプロセス(多様なバリエーション)が強調されたことがあったけど、それは明らかに間違いで、マティスでは常に、完成というのとは違うとしても、ある一定以上の充実した密度が実現された状態が目指されていて、それに至るための探求として無数のバリエーションが生まれるのだと思うのだけど、クレーの場合は、結果としての作品の充実よりも、手作業=思考そのものの展開の自由さこそが重要だったように感じられた。だからその作品は、人を立ち止まらせ、見入らせるというより、人を動かす、ということなのか。
●だから、ということではないが、今日は一日じゅうお絵かきをしていた。制作には至らない、クレヨンでのお絵かき。段ボール箱(amazonの箱とか)や、スケッチブックの表紙や、余った板切れなどに。絵を描くための場所じゃなくて、何かの物の表面(既に何か印刷してあったりする)に描くことには、特別な何かがあるように感じるのだが、それをたんなる「気軽さ」と捉えるのは間違っているようにおもわれる。だが、それを「何だ」とは明確に掴めていない。