ハイデン・ヘレーラ『マチスの肖像』

●古本屋で見つけた、ハイデン・ヘレーラという人が書いた『マチスの肖像』という本を半分くらいまで読んでいた。ぼくはマティスのマニアックなファンではあるけど、画家の生涯についての細かいことはあまり知らないので、読み物として面白く読んでいる。絵画作品の魅力は、必ずしも画家の生涯や人となりと関係があるわけではないが、しかし、作品は生身の画家からしか生み出されないという意味では、その作品と、生涯や伝記的事実とがまったく関係がないとは言い切れない。絵画作品の意味は、その作品を通してしか開示されず、それが描かれた背景を知ることでそれを代替することはできないけど、しかし、それぞれ個一個の作品は、ある具体的な状況のなかに置かれる、ある特定の性格を持った画家によって生み出されるしかないわけで、そこに、伝記的事実とのつながりはある。
●この本のなかに、自らのフォーブ時代の作品についての、マティス自身による次のような言葉が引用されている。
《私はある対象についての色彩の感覚をもっていた。そこで私はカンヴァスに一つの色彩をおく。それが最初の色彩である。次に私は二番目の色彩を加え、それが最初の色彩とうまくいっていない場合は、二番目の色彩を拭い去るかわりに、これら二つの色彩に調和をもたらすような三番目の色彩をおく。このようにして私はカンヴァスに完全な調和が生まれるまで同様の作業をつづけ、その結果、この絵を描くように私をつき動かした感情から解放されるのである。》
この発言はとても解りやすいようにも思える。しかし、このような説明からは、純粋に抽象的な、色彩のハーモニーのみによって出来上がったような絵が想像されるが、実際のマティスの絵はそのようなものではない。マティスの絵は、モデルや対象から切り離されてしまうことはない。上記の発言からは、最初に持っていた「ある対象についての感覚」と、「最初におかれた色彩とその次の置かれた色彩との関係から三番目の色彩がおかれる」というような、絵画平面上でのみ行われる調和への追求という、その両者の関係がよく解らないのだ。マティスの発言からだけ考えると、「ある対象についての感覚」は、最初の色と、せいぜい二番目の色が置かれる時までしか必要ではなく、三つ目の色彩以降は、キャンバス上の色彩の調和の問題になる。しかしマティスのフォーブ時代の作品においては、キャンバス上での色彩の関係の響き合いが追求されることと、実際に見ている「対象」によって与えられている感覚をキャンバスの上に組み立てることとが、同時に行われている。言い換えれば、色彩や形態同士の、純粋な調和や響き合いといった関係が問題にされているのと同時に、対象によってあたえられたイメージも同様に問題とされている。マティスの作品の面白さや難しさは、(フォーマリストとして)色彩や形態の調和を主に追求しているとも言い切れないし、逆に、対象から受ける感覚(イメージ)の方を主に追求しているとも言い切れない、という点にある。
●フォーブ時代より少し後の1910年代に『テラスのゾラ』というモロッコで描かれた作品がある。この絵は、ある魅力的な光に満たされた空間のなかにエキゾチックな装飾模様の服を着た少女が座っているという絵で、この少女は、ある特定の人格や特徴を強く主張しているわけではなく、むしろ一般的な「異国の少女」という以上の自己主張は抑制されていて、この少女の特異性によって絵が成り立っているというわけではない。しかしマティスは、この絵を描くために「ゾラ」という特定のモデルを必要とした。以前のモロッコ滞在の時に何度かモデルにしたことのある、娼婦であるらしいこの少女が、この時はなかなか見つからず、何件もの娼館を苦労して探してやっとみつけた、というエピソードがこの本に書かれていた。それだけ苦労して、しかもあまり乗り気でもない少女にしぶしぶモデルを引き受けさせて描いた絵が、出来上がった作品を観るかぎりでは、なぜそこまでして「ゾラ」というモデルが必要なのか、異国風の少女なら誰でもよいのではないか、と思わせるものであることが面白い。おそらくマティスは、たんに少女の像の部分だけを描くためにこのモデルを必要としたのではなく、この絵全体をつくりあげるためにこそ、このモデルを必要としていたのだろう。つまり、モロッコの光のなかに、この少女が座っているという状態(その、現実上の組み合わせ)全体から受ける印象こそが、マティスがこの絵を描くために必要としたものだったのではないだろうか。マティスは、ゾラを描こうとしたわけでもないし、モロッコの光のみを描こうとしたわけでもなく、モロッコのテラスに射す光のなかにゾラが座っているという状態全体から受ける感覚を描こうとしたのだろう。(だからやはりこの絵のゾラは、人物というより人体として、特定のモデルなしで描かれた『豪奢』や『ダンス』の人物よりは、それ単体としての充実度がある。『豪奢』や『ダンス』の人体の形態は、マティスがその修行時代から何枚となく描いてきたヌードのデッサンや習作の「手」や「目」の記憶の集積のなかから出てきたものなのだろう。)
●この本には、マティスが「対象」について語った1951年の言葉も引用されていた。
《こうして私は生涯同じような対象を前に仕事をしてきました。その対象が私とともに、そして私のために、開示するすべてが私の精神と結びつくことによって、それは私に現実というものの力を与え続けてくれたのである。....対象とは一人の役者である。....つまり、一つの対象は十枚の作品の中でそれぞれ異なった役割を演じることができるのである。対象は単独で認識されるのではなく、それを取り巻く要素全体を喚起するのである。あなたは私が庭を背景に単独で描いたテーブルを思い出させてくれましたね?....それは私がそのとき感じていた戸外の雰囲気全体を表現していたのです。》